발표자료2015. 4. 22. 01:37

 

 

太宰治の「千代女」一考察

―「書くことのできない理由」を中心に―

 

 

 

Ⅰ.はじめに

Ⅱ.本論

1.環境のプレッシャー

2.千代女の性格の問題

Ⅲ.おわりに

参考文献

  

 

 

 

Ⅰ.はじめに

 

太宰治(19091948)は戦後の混乱の中、日本の社会が極度に疲弊していた時節、既成世代のモラルや文学観に反してデカダンスの文学を主唱した作家である。彼は青森県の津軽の大地主の息子に生まれるが、家父長的・封建的な家で育てられた。そのような家の雰囲気もさることながら母の不在は彼に少なからずの疎外感や人間に対する不信、罪悪感、母性の喪失感などを与えられ、彼の生涯又文学にまで大きな影響を及ぼすこととなった。

彼の文学は一般的に前期(19331937)、中期(19381945)、後期(19461948)と分けられ[1]、中期は日中戦争と太平洋戦争があった時期に書かれた作品であると言える。この中期文学は前衛的で実験的な作法を試みた前期とは違って安定した実生活を素材とし、作家自身の体験や感想を平凡な文体で作り上げたという特徴をもつ。

太宰において中期の文学世界は前後期と比べて大幅異なってくる。この時期に彼は「女性」「愛」などに深い関心を持ち、「反俗」「無頼」「道化」よりも「素朴」「単純」「正直」な文学世界を描きつつある。

本稿で考察する「千代女」(1941)もまたこの中期に執筆されたもので、1941年「改造」に発表された。「千代女」の同時代批評には石田英次郎の「六月の小説「改造」」(「新潮」1941)や無署名「改造」(「三田文学」1941、「今日の雑誌」欄)などがあり、それぞれ「才気煥発な小説」「太宰を理解するに一番解り易い作品」と一定の評価を示している。また、「昭和十六年の文学を語る(座談会)」(「現代文学」194111月)では、大井広介が「きりぎりす」(194011月)と比較して、「あがりは一段と手際いいが、あんまり楽にやれすぎてゐる」と批判し、平野謙もそれに同意している。[2]

近代の研究では、まず木村小夜「太宰治『千代女』論―回想のありかたを中心に―」(「人間文化研究科年報」19913月)が、自身の才能に対する不信感を繰り返し表明しながらもその才能を頼みにし続けるという分裂・矛盾が和子に生じた原因を、テキストの記述に沿って叔父らとの関係から考察し読みの基本線を示した。続いて安藤恭子「太宰治「千代女」を讀む―エクリチュールの境界をめぐって―」(「日本文学」19955月)は、綴り方運動の歴史的動向に触れ、そこで流通した少女たちの言説の性格を闡明しつつ、「<ありのまま>の彼方に仮構された<作家の人格>が流通し、それがエクリチュールの本質として解され、さらに<作者>のあるようを規定し、圧迫する」ような「<少女文化>と呼ばれる現像そのものを相対化するテキスト」として本作を評価した。また千田洋幸「「千代女」の言説をめぐって―自壊する「女語り」」(「国文学」19996月)は、和子の言葉が彼女を管理する男たちの言葉の引用のモザイクであることを指摘し、男たちの言葉が「彼女の言葉を領有しつくしていくプロセスについて語ろうとする物語」として「千代女」を捉えている。千田は、男たちの言葉にそれぞれ相反する内容が含まれており、そうした二重高速的なメッセージへの抵抗手段を何ら持っていないことが、和子にアイデンティティ喪失の危機をもたらしていることを論証する。そして、「一見「男性」的な言葉を脱構築するかのような「女語り」という方法それ自体が、じつは男性中心的なイデオロギーの産物にほかならない、という逆説」を読者に突き付け、「太宰テクストの「女語り」に内在する性差と言葉の問題―「千代女」「燈籠」「満願」―」(「国語国文薩摩路」1996年)は、和子に「当時の国策に従って書かされていた文学者達のイメージ」を重ねて読解を試みており、太宰と戦時下の社会状況との関係をアクチュアルに捉えた。[3]

同時代批評から近代・比較的の最近までの先行研究を触れたけれど、「千代女」に関する論は同じ中期に書かれた「女の決闘」や「女学生」に比べれば、非常にわずかであると言える。比較的最近の先行研究まではフェミニズム的な観点やコンテクスト的な面から接近した研究が多かれ少なかれ行われていたことから筆者も特にコンテクスト的な分析には深く共感するところ、本稿では前述した先行研究に基づき、1章では太宰と<私>、つまり和子を環境のプレッシャーをコンテクスト的な要素を中心といて考察し、つづいて2章では和子の性格の問題を中心に彼女がもう綴り方を書けない理由を分析してみようと思う。

しかし、作品の語り手が何度も強調するように「女は~」という言い方をとっていることを思へば、一度フェミニズム的な見方で作品を見通す必要もないとは言いきれないが、ここではできるだけ環境や性格の問題にフォーカスを合わせるようにして語ろうとする。

テキストは「千代女」 4巻 (全12巻、『太宰治全集』、筑摩書房、1975)により、引用はページだけ記載する。

 

 

. 本論

 

1.環境のプレッシャー

 

 

あなたには誠実が不足してゐる、いかに才能が豊富でも、人間には誠実がなければ、何事に於いても成功しない、あなたは寺田まさ子といふ天才少女を知つてゐますか、あの人は、貧しい生れで、勉強したくても本一冊買へなかつたほど、不自由な気の毒な身の上であつた、けれども誠実だけはあつた、先生の教へをよく守つた、それゆゑ、あれほどの名作を完成できたのです、教へる先生にしても、どんなに張り合ひのあつた事でせう、あなたに、もうすこし誠実といふものがあつたならば、僕だつて、あなたを寺田まさ子さんくらゐには仕上げて見せます、いや、あなたは環境に恵まれてもゐるし、もつと大きな文章家に仕上げる事が出来るのです、(中略)あなたは自分の才能にたよりすぎて、師を軽蔑してゐるのです。p.178

 

 

和子、もういい加減に、女流作家はあきらめるのだね、と與醒めた、まじめな顔をして言ひました。それからは、叔父さんが、私に、文学といふものは特種の才能が無ければ駄目なものだと、苦笑しながら忠告めいた事をおつしやるやうになりました。(p.182

 

 

和子だつて、書けば書けるのにねえ、根気が無いからいけません。p.182

 

 

叔父や先生は「「才能」がないから」やら「「誠実」でないから」やらといいながら、彼女が駄目だと決めつけてしまうが、本当はどうであろうか。和子は才能が無かったため書けなかっただろうか、誠実でなかったため駄目になったのだろうか、それとも両方だろうか。

来年19歳になる<私>(和子)は、12歳の時に叔父の勧めで投書した綴り方が当選し雑誌に掲載されてから、つくづく自分が駄目になったと思っている。当時、学校では皆に特別扱いにされ、心底綴り方が嫌いになるが、叔父は<私>の教育をあきらめなかった。

 

七年前に、私の下手な綴り方を無理矢理、「青い鳥」に投書させたのも、此の叔父さんですし、それから七年間、何かにつけて私をいぢめてゐるのも、此の叔父さんであります。私は小説を、きらひだつたのです。いまはまた違ふやうになりましたが、その頃は、私のたわいも無い綴り方が、雑誌に二度も續けて掲載せられて、お友達には意地悪くされるし、受持の先生には特殊な扱ひをされて重苦しく、本党に綴り方がいやになってそれからは柏木の叔父さんから、どんなに巧くおだてられても、決して投書しようとはしませんでした。あまり、しつこくすすめられると、私は大声で泣いてやりました。(p.172

 

 

和子の「無理やり」「いじめている」という表現で書きたくない彼女の意志にも関わらず、何かにつけて強引に書かせようとする叔父の姿がうかがえる。筆者はこのような強引な叔父の姿は「千代女」が執筆された当時のコンテクスト的な要素と無関係でないと思う。

周知のとおり日本は19316月に満州事変を起し、19377月には日中戦争を引き起こした。また翌年は「国民総動員法」が作り出されるがためマスコミや思想の統制が強化されつつ、新聞や出版物に対した諸々の制約及び断続が施行された。[4] 廃刊という極端の取り計らいまで施行される混乱の時局にマスコミや文学家の自己瞼裂は免れないことだったかもしれない。

 

 

いまこそ私は、いつか叔父さんに教へられたやうに、私の見た事、感じた事をありのままに書いて神様にお詫びしたいとも思ふのですが、私には、その勇気がありません。いいえ、才能が無いのです。それこそ頭に錆びた鍋でも被ってゐるやうな、とつてもやり切れない気持ちだけです。私には、何も書けません。p.182

 

 

そのような脈絡で上の下線のところを観ると太宰の書き又は執筆に対する所信の一端がうかがえる。「千代女」をある才能のない少女の狂っていく話に限るにはあまりにももったいないと思われるほど、ここには太宰の「書き」に対した志がテキストの隅々までよく染み込んでいるように思われるのである。「千代女」にざらに反復されている「ちょっとした事を書いたのでした」(p.169)「私はその事を正直に書いたのです」(p.170)「見たところ感じたところを、そのまま書いたら、それでもう立派な文学だ」(p.181)という風に太宰において書くことはありのままを正直に表現したものであったと言える。実際、彼が1941618日小山清に送った手紙に「いつまでも自分の触覚で感じた感動」だけは「正直に表現していきたい」[5]と記述したのは前述した「千代女」のあれと大幅似ている。

素材や内容は限られ、表現の自由さえ許されない戦時体制の中で自己瞼裂と出版社による間接的な瞼裂を意識しつつ創作活動を続かなければならなかった政治主導的文学について太宰は「自分の頭に錆びた鍋でも被ってゐるやうなとつても重くるしい」(p.168)気分になって「ありのままに」「正直に」「書けない」というふうに主体的な立場を立て通しているのである。

 

 

どうしたら、小説が上手になれるだらうか。きのふ私は、いまに気が狂ふのかも知れません。p.183

 

 

一方、憂鬱な時節にどのようにして書いたらいいのかという太宰の悩みは「私」という語り手にもちゃんと反映されていると思われる。1939年の文学系の評論は当時の主流となった戦争文学、大陸文学のような国策文学の「素材」主義的な傾向に立ち向かい、私小説の勢力の回復を軸とする芸術派が批判を加えるようになった。所謂「素材派」と「芸術派」の対立と呼ばれるこの「私小説論争」は「素材」対「芸術」という双方の主張が表すように文学において時局に適切な「素材」を重視するべきか、作家自身の「私」を重視するべきかということであって、同時代の作家に自身の文学に対した所信を強要していたのである。

この「素材派」と「芸術派」の論争はまた1941年「時代」と「私小説」の形になって先鋭に対立した。亀井秀夫は1940年末から194112月の太平洋戦争に至るまでのおよそ1年間を「文学上の最大の転回、屈折点」と観、この時期に私小説の問題が再び論争になった背景には私小説作家だという点から「半時局性」の非難を免ぬかれず、「革新的自己反省」を強く強引されたという面を指摘している。[6] 彼の思想は「千代女」だけでなく太宰の他の中期文学にも確認できる。

 

 

素材は、小説でありません。素材は、空想を支へてくれるだけであります。私は、今まで六囘、たいへん下手で赤面しながらも努めて来たのは、私のその愚かな思念の実証を、読者にお目にかけたかつたが為でもあります。(「女の決闘」『全集3』、p.226

 

 

「女の決闘」が書かれた翌年「千代女」が生み出されたことを思うと前期の作品群と比べ、彼の中期作品に「書き」に対した苦痛と信念が溶け込んでいることは疑う余地がないようにも思われるのである。金京淑はこのような半時局性の太宰文学にについて「「私小説」を「私」の「信条」と設定しているのは国策文学が中心となった当時の文学系に向かっての反発」だと評価した。また「「滅私奉公」という「公」の論理が価値判断の基準として徹底に讃美された当時に「私小説作家」という理由だけで「非時局性」を非難された彼は逆説的に作品の中で「私」を表出すること」、また「同時にそのような作家自身の表現方法を強調することによって「公」の支配論理を乗り越え、文学者として戦争の時代を生きていこうとした太宰」[7]と評価した。「千代女」の「私」という、また狂っていく語り手はこういう半時局性を非難されつつも決して妥協するとしなかった太宰自身ではなかっただろうか。

 

 

2.千代女の性格の問題

 

 和子が綴り方はもう書きたくないと思った理由は大きく四つに分けることができる。まず一つ目は何気なく投書した綴り方が当選して世間の注目を浴びることになり負担や不安などの感情を感じたこと、二つ目は学校で先生に特別扱いされたり、友達にいじめられたりしたこと、三つ目は綴り方のため家族間にいざこざが起こったこと、四つ目はやりたくないのに強引に押し付けられたこと、という理由である。和子は綴り方による「不安」「負担」「恐怖」「はにかみ」「孤独」「苦しみ」などの複雑な感情を持っていると言える。そしてこのような否定的な感情は和子に「自虐」「分裂」の感情を齎すことになる。

 

 

私は息がくるしくなつて、眼のさきがもたもや暗く、自分のからだが石になつて行くやうな、おそろしい気持ちが致しました。こんなに、ほめられても、私にはその値打ちが無いのがわかつてゐましたから、この後、下手な綴り方を書いて、みんなに笑はれたら、どんなに恥づかしく、つらい事だらうと、その事ばかりが心配で、生きてゐる気もしませんでした。 (中略)私のその心配は、その後、はたして全部、事実となつてあらはれました。p.171

 

 

さつそく母と、ひどい言ひ争ひになりました。茶の間の言ひ争ひを、私は勉強室で聞きながら、思ふぞんぶんに泣きました。私の事で、こんな騒ぎになつて、私ほど悪い不孝な娘は無いといふ気がしました。こんな事なら、いつそ、綴り方でも小説でも、一心に勉強して、母を喜ばせてあげたいとさへ思ひましたが、私は、だめなのです。もう、ちつとも何も書けないのです。文才とやらいふものは、はじめから無かつたのです。雪の降る形容だつて、澤田先生のはうが、きつと私より上手なのでせう。私は、自分では何も出来やしない癖に、澤田先生を笑つたりして、なんといふ馬鹿な娘でせう。さらさらひらひらといふ形容さへ、とても私には、考へつかぬ事だつた。私は、茶の間の言ひ争ひを聞きながら、つくづく自分をいけない娘だと思ひました。p.180

 

 

和子はいつか下手な綴り方を書いて恥をかかせるようになることを心配し(またはそのような事態になった場合他の人からどう思われるかの、人に対した恐れを抱き)、当選までした自分の綴り方を見下し、親の口喧嘩の原因が自分にあることを確信しつつある。ところで、和子のこのような「幼弱な性格」は結構馴染みのあることだと思われる。山岸外史の「太宰と恐怖」[8]をはじめ、特に彼の晩年に執筆された『人間失格』の数多くの研究では主人公大場洋三の生と太宰の生をそのまま重ならせ考察している。

1章で筆者は「千代女」は憂鬱な時局の中、太宰の「書き」または「執筆」に対した「志」とみた。そしてまた筆者が1章で考察したように「私」という一人称の語り手は彼の文学信念を証明する仕掛けでありながら、「私」というのが私小説作家であった太宰と決して無関係でないとみた。三順は「『人間失格』論:<洋三>の恐怖及び破滅の要因」[9]で精神発達理論、幼児精神健康を引用し、「太宰は権威的で厳しい父のもとで消極性や劣等感を持つことにより、不安は深まり恐怖は深化された。」と指摘している。

 

 

「伸ばしてみたつて、どうにもなりません。女の子の文才なんて、たかの知れたものです。一時の、もの珍しさから騒がれ、さうして一生を台無しにされるだけの事です。和子だつて、こはがつてゐるのです。女の子は、平凡に嫁いで、いいお母さんになるのが一ばん立派な生きかたです。お前たちは、和子を利用して、てんでの虚栄心や公明心を満足させようとしてゐるのです。」(p.174

 

 

では和子の父に観られる家父長的態度もまた和子を幼弱に消極的にさせ、劣等感まで抱くようにさせたとみることも無理ではなかろう。しかし、三順の『人間失格』の研究とは違って、「千代女」には父のみならず、登場する全ての男の人が権威的で家父長的な面貌を持っているということに目が引かれる。

 

 

「岩見さんは、まだお年も若いのに、なかなか立派な人だ、こちらの気持ちも充分にわかつて下さつて、かへつて向うのはうから父にお詫びを言つて、自分も本党は女のお子さんには、あまり文学をすすめたくないのだ、とおつしやつて、はつきり名前は言はなかつたが、やはり柏木の叔父さんから再三たのまれて、やむなく父に手紙を書いた御様子であつた、と父は、母と私に語つて下さいました。」(p.175

 

 

「千代女」に登場する男性は「ちち」「叔父さん」「岩見先生」「澤田先生」などがいるが、権威的なイメージを持つのは4人一緒で、家父長的なイメージを持っているのは父と岩見先生だけだといえる。父と岩見先生は女の子に文学はさせたくない、という立場で一貫していて、叔父さんと澤田先生は才能もあるし、努力さえすれば女の子とは関係なく成功することができるという立場である。この四人のスタンスは少しずれているように見えるがどちらも和子を圧迫していることには変わりがない。したがって彼女の幼弱で依存的な姿は周りのひとに基づいたものだと考えることができる。つまるところ、和子の幼弱な性格は作品内的では和子をめぐる周囲の圧迫または家父長的な態度が影響を及ぼされたと見えるが、このような幼弱な性格自体は作家である太宰の育った環境ともとてもよく似ているように思われるので和子の性格は太宰の性格と緊密に繋がっているということである。

また金京淑[10]が指摘しているように太宰が「自分の文学については常に主体的な姿勢をとっていたこと」は明白であるが、「同時にそのような自分が志向する文学と思想との乖離感は自己批判と挫折感を齎す原因となった」。そしてこの乖離感は前述した時代を支配する支流ということから発生せられたものともいえるだろう。

河廷旼は「太宰治における中期の女性についての一考察」[11]で「太宰においては、女性というものは、特別な存在であり、女性を通じ、自己発見を目指していた」といいながらフロイトの理論を引用し太宰の中期文学を中心に彼の文学に登場する「女」のイメージを三つに分けて説明している。一つ目は「母性的な女性」で母より叔母と親しく育てられた彼が無意識の中女性に対して母性を求めているということで、二つ目は「自己投影的女性」で、三つ目は「崇拝の対象としての女性」である。あいにくここに「千代女」は言及されていないが、筆者は「千代女」の和子が太宰の「自己投影的な女性」に含まれるに十分であると思う次第である。

奥野健男は太宰は欠如感覚を持っていてれきっとしなく、いつも不安や孤独感にせまられる惰弱なものとしての自分を主張することで自分のように罪意識にせまられる大勢の人を安心させる力になってくれることができると信じ、そのような自信を主張しようとした[12]という。筆者はこの部分が肝心要のところだと思う。

 

 

Ⅲ.おわりに

 

以上で1941年に執筆された「千代女」における「書けない理由」を1章の「環境のプレッシャー」と2章の「千代女の性格の問題」に分けて検討してみた。

和子は先生や叔父また母にそれぞれ「「才能」が無いから」「「誠実」でないから」を理由に書けないと聞いていて彼女もそれをそのまま受け入れながら自分を馬鹿にし、どうしたらうまく書けるのか絶叫しながら苦しんだ。

1章ではそのような和子の周囲から圧迫される姿、書けない苦しみに対し、1941年を前後とした日本の戦時体制の中で自由に「書けない」作家たちを指摘しつつ、同時代に送った手紙を通じて太宰の追求した「ありのまま」文学観を考察してみた。つまるところ、彼は厳しいマスコミや文学の瞼裂があった時代に思うままの文学を「書けにくかった」しかも彼の私小説作家という立場は「非時局性」を非難される中でとても重苦しかったのかもしれない。また同じ中期文学で代表される「女の決闘」で観られるように41年を前後とした彼の中期文学には「書き」への主体的な態度がそのまま描いていることが確認できた。一方、「千代女」が一人称小説というのを思えば「書けない和子」は「書けにくかった太宰」である可能性が高い。

2章では和子の持つ諸々の否定的な感情がそのまま太宰の持つ感情に重なることを考察してみた。和子の持つ「幼弱さ」は太宰の研究で太宰の性格とよく指摘される要素であって、これは家父長的で権威的な父のもとで育てられた幼児によくあることだと論じた論から、和子の幼弱な性格が太宰のように周囲の人の影響をうけた可能性を示した。また前章で考察してみたように戦時体制の中、支流に背けて主体的な文学を書くことに何らかの乖離感を抱いていたかもしれず、自虐する和子は彼のそのような分裂の一段である可能性を示した。

結局、1章、2章での考察を総合して太宰は時代の大きな流れに逆らい、主体的な文学を書こうと悩んだ、「千代女」には彼のそのような「書き」への悩みがそのまま染み込んでいて、またその支流に争いつつも、彼の幼弱な性格のため乖離する、分裂する自我が和子に投影されたといえる。

筆者はそのような乖離感による「悩み」「苦しみ」が彼の文学の中での「生き方」乃至は「存在様式」と観られ、「千代女」を通じてそのようなわずかな考察が出来たと思う次第である。

【参考文献】

 

【テキスト】

太宰治、『太宰治全集』第4巻、筑摩書房、1986.12

太宰治、『太宰治全集』第11巻、筑摩書房、1977

 

【単行本】

奥野健男、「太宰論」『批評と研究 太宰治』岩波書店、1972

日本文学研究資料刊行会 編、『―太宰治―日本文学資料叢書』第16巻、有精堂、1975.4

三好行雄 、『近代日本文学史』、有斐閣、1975

亀井秀夫、『戦時下の私小説問題―その『抵抗』の姿』日本文学研究資料叢書『昭和の文学』、 有精堂、1981

坂本忠雄 編、『昭和の文學』、新潮社、1989

曽根博義 編、『昭和文学全集別巻』、小学館、1990

岩波書店編集部、『近代日本総合年表』、岩波書店、1991

柴口順一、「「千代女」から女性白体へ、そして太宰治へ」、山祥史 編、『太宰治究7』、和泉書院、2000

チョン・インムン、『日本近·現代作家研究』、ゼイエンシ、2005.1

 

【論文雑誌】

三順 、「『人間失格』論:葉蔵の恐怖と破滅の要因」、『日本語教育研究』第42000.12

パク・セヨン、「太宰治の存在様式」、『韓国文化研究』第6巻、2001.12

河廷旼、「太宰治における中期の女性についての一考察」、『日語日文學』第27集、2005.8

鄭芙蓉、「太宰治における芸術至上主義」、『日本語文学』第382007.8

金京淑、「太宰治における「私」について」、『日本文化研究』第472013.7

 

【辞典】

志村有弘·渡部芳紀 編、「千代女」・「年譜」『太宰治大辞典』、勉誠、2005.01



[1] この区分は主に作風と作家の実生活を反映したものであって奥野健男によって提唱された。

[2] 志村有弘·渡部芳紀 編、「千代女」『太宰治大辞典』、勉誠、2005p.545

[3] 前掲書、pp.555546参照

[4] 1938年は社会主義の傾向が強かった『人民文庫』が強引に廃刊され、中国戦争の惨状を書いた石川達三の『生きてゐる兵隊』を掲載したゆえに『中央公論』3月呉が発売禁止に取り計らわせられた。のみならず、時局に批判的であった宮本百合子や中野重治をはじめ多くの文学家に執筆禁止乃至保護観察処分が下されたのも1938年の年末であった。(曽根博義、「昭和文学史Ⅱ戦前・戦中の文学―昭和8年から敗戦まで」『昭和文学全集別巻』、小学館、1990pp.380381 参照)

[5] 太宰治、『太宰治全集』第11巻、筑摩書房、1977p.217 参照

[6] 亀井秀夫、『戦時下の私小説問題―その『抵抗』の姿』日本文学研究資料叢書『昭和の文学』、 有精堂、1981p.156 参照

[7] 金京淑、「太宰治における「私」について」、『日本文化研究』第472013.7pp.1920

[8] 山岸外史、『人間太宰』、角川文庫、1964p.312320

[9] 三順、「『人間失格』論:<洋三>の恐怖及び破滅の要因」『日本語教育研究』第4、2000.12pp.86115 参照

[10] 金京淑、前掲書、p.10

[11] 河廷旼、「太宰治における中期の女性についての一考察」、『日語日文學』第27集、2005.8

[12] 奥野健男、「太宰論」『批評と研究 太宰治』岩波書店、1972p.21

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Posted by prajna_