발표자료2015. 4. 22. 01:37

 

 

太宰治の「千代女」一考察

―「書くことのできない理由」を中心に―

 

 

 

Ⅰ.はじめに

Ⅱ.本論

1.環境のプレッシャー

2.千代女の性格の問題

Ⅲ.おわりに

参考文献

  

 

 

 

Ⅰ.はじめに

 

太宰治(19091948)は戦後の混乱の中、日本の社会が極度に疲弊していた時節、既成世代のモラルや文学観に反してデカダンスの文学を主唱した作家である。彼は青森県の津軽の大地主の息子に生まれるが、家父長的・封建的な家で育てられた。そのような家の雰囲気もさることながら母の不在は彼に少なからずの疎外感や人間に対する不信、罪悪感、母性の喪失感などを与えられ、彼の生涯又文学にまで大きな影響を及ぼすこととなった。

彼の文学は一般的に前期(19331937)、中期(19381945)、後期(19461948)と分けられ[1]、中期は日中戦争と太平洋戦争があった時期に書かれた作品であると言える。この中期文学は前衛的で実験的な作法を試みた前期とは違って安定した実生活を素材とし、作家自身の体験や感想を平凡な文体で作り上げたという特徴をもつ。

太宰において中期の文学世界は前後期と比べて大幅異なってくる。この時期に彼は「女性」「愛」などに深い関心を持ち、「反俗」「無頼」「道化」よりも「素朴」「単純」「正直」な文学世界を描きつつある。

本稿で考察する「千代女」(1941)もまたこの中期に執筆されたもので、1941年「改造」に発表された。「千代女」の同時代批評には石田英次郎の「六月の小説「改造」」(「新潮」1941)や無署名「改造」(「三田文学」1941、「今日の雑誌」欄)などがあり、それぞれ「才気煥発な小説」「太宰を理解するに一番解り易い作品」と一定の評価を示している。また、「昭和十六年の文学を語る(座談会)」(「現代文学」194111月)では、大井広介が「きりぎりす」(194011月)と比較して、「あがりは一段と手際いいが、あんまり楽にやれすぎてゐる」と批判し、平野謙もそれに同意している。[2]

近代の研究では、まず木村小夜「太宰治『千代女』論―回想のありかたを中心に―」(「人間文化研究科年報」19913月)が、自身の才能に対する不信感を繰り返し表明しながらもその才能を頼みにし続けるという分裂・矛盾が和子に生じた原因を、テキストの記述に沿って叔父らとの関係から考察し読みの基本線を示した。続いて安藤恭子「太宰治「千代女」を讀む―エクリチュールの境界をめぐって―」(「日本文学」19955月)は、綴り方運動の歴史的動向に触れ、そこで流通した少女たちの言説の性格を闡明しつつ、「<ありのまま>の彼方に仮構された<作家の人格>が流通し、それがエクリチュールの本質として解され、さらに<作者>のあるようを規定し、圧迫する」ような「<少女文化>と呼ばれる現像そのものを相対化するテキスト」として本作を評価した。また千田洋幸「「千代女」の言説をめぐって―自壊する「女語り」」(「国文学」19996月)は、和子の言葉が彼女を管理する男たちの言葉の引用のモザイクであることを指摘し、男たちの言葉が「彼女の言葉を領有しつくしていくプロセスについて語ろうとする物語」として「千代女」を捉えている。千田は、男たちの言葉にそれぞれ相反する内容が含まれており、そうした二重高速的なメッセージへの抵抗手段を何ら持っていないことが、和子にアイデンティティ喪失の危機をもたらしていることを論証する。そして、「一見「男性」的な言葉を脱構築するかのような「女語り」という方法それ自体が、じつは男性中心的なイデオロギーの産物にほかならない、という逆説」を読者に突き付け、「太宰テクストの「女語り」に内在する性差と言葉の問題―「千代女」「燈籠」「満願」―」(「国語国文薩摩路」1996年)は、和子に「当時の国策に従って書かされていた文学者達のイメージ」を重ねて読解を試みており、太宰と戦時下の社会状況との関係をアクチュアルに捉えた。[3]

同時代批評から近代・比較的の最近までの先行研究を触れたけれど、「千代女」に関する論は同じ中期に書かれた「女の決闘」や「女学生」に比べれば、非常にわずかであると言える。比較的最近の先行研究まではフェミニズム的な観点やコンテクスト的な面から接近した研究が多かれ少なかれ行われていたことから筆者も特にコンテクスト的な分析には深く共感するところ、本稿では前述した先行研究に基づき、1章では太宰と<私>、つまり和子を環境のプレッシャーをコンテクスト的な要素を中心といて考察し、つづいて2章では和子の性格の問題を中心に彼女がもう綴り方を書けない理由を分析してみようと思う。

しかし、作品の語り手が何度も強調するように「女は~」という言い方をとっていることを思へば、一度フェミニズム的な見方で作品を見通す必要もないとは言いきれないが、ここではできるだけ環境や性格の問題にフォーカスを合わせるようにして語ろうとする。

テキストは「千代女」 4巻 (全12巻、『太宰治全集』、筑摩書房、1975)により、引用はページだけ記載する。

 

 

. 本論

 

1.環境のプレッシャー

 

 

あなたには誠実が不足してゐる、いかに才能が豊富でも、人間には誠実がなければ、何事に於いても成功しない、あなたは寺田まさ子といふ天才少女を知つてゐますか、あの人は、貧しい生れで、勉強したくても本一冊買へなかつたほど、不自由な気の毒な身の上であつた、けれども誠実だけはあつた、先生の教へをよく守つた、それゆゑ、あれほどの名作を完成できたのです、教へる先生にしても、どんなに張り合ひのあつた事でせう、あなたに、もうすこし誠実といふものがあつたならば、僕だつて、あなたを寺田まさ子さんくらゐには仕上げて見せます、いや、あなたは環境に恵まれてもゐるし、もつと大きな文章家に仕上げる事が出来るのです、(中略)あなたは自分の才能にたよりすぎて、師を軽蔑してゐるのです。p.178

 

 

和子、もういい加減に、女流作家はあきらめるのだね、と與醒めた、まじめな顔をして言ひました。それからは、叔父さんが、私に、文学といふものは特種の才能が無ければ駄目なものだと、苦笑しながら忠告めいた事をおつしやるやうになりました。(p.182

 

 

和子だつて、書けば書けるのにねえ、根気が無いからいけません。p.182

 

 

叔父や先生は「「才能」がないから」やら「「誠実」でないから」やらといいながら、彼女が駄目だと決めつけてしまうが、本当はどうであろうか。和子は才能が無かったため書けなかっただろうか、誠実でなかったため駄目になったのだろうか、それとも両方だろうか。

来年19歳になる<私>(和子)は、12歳の時に叔父の勧めで投書した綴り方が当選し雑誌に掲載されてから、つくづく自分が駄目になったと思っている。当時、学校では皆に特別扱いにされ、心底綴り方が嫌いになるが、叔父は<私>の教育をあきらめなかった。

 

七年前に、私の下手な綴り方を無理矢理、「青い鳥」に投書させたのも、此の叔父さんですし、それから七年間、何かにつけて私をいぢめてゐるのも、此の叔父さんであります。私は小説を、きらひだつたのです。いまはまた違ふやうになりましたが、その頃は、私のたわいも無い綴り方が、雑誌に二度も續けて掲載せられて、お友達には意地悪くされるし、受持の先生には特殊な扱ひをされて重苦しく、本党に綴り方がいやになってそれからは柏木の叔父さんから、どんなに巧くおだてられても、決して投書しようとはしませんでした。あまり、しつこくすすめられると、私は大声で泣いてやりました。(p.172

 

 

和子の「無理やり」「いじめている」という表現で書きたくない彼女の意志にも関わらず、何かにつけて強引に書かせようとする叔父の姿がうかがえる。筆者はこのような強引な叔父の姿は「千代女」が執筆された当時のコンテクスト的な要素と無関係でないと思う。

周知のとおり日本は19316月に満州事変を起し、19377月には日中戦争を引き起こした。また翌年は「国民総動員法」が作り出されるがためマスコミや思想の統制が強化されつつ、新聞や出版物に対した諸々の制約及び断続が施行された。[4] 廃刊という極端の取り計らいまで施行される混乱の時局にマスコミや文学家の自己瞼裂は免れないことだったかもしれない。

 

 

いまこそ私は、いつか叔父さんに教へられたやうに、私の見た事、感じた事をありのままに書いて神様にお詫びしたいとも思ふのですが、私には、その勇気がありません。いいえ、才能が無いのです。それこそ頭に錆びた鍋でも被ってゐるやうな、とつてもやり切れない気持ちだけです。私には、何も書けません。p.182

 

 

そのような脈絡で上の下線のところを観ると太宰の書き又は執筆に対する所信の一端がうかがえる。「千代女」をある才能のない少女の狂っていく話に限るにはあまりにももったいないと思われるほど、ここには太宰の「書き」に対した志がテキストの隅々までよく染み込んでいるように思われるのである。「千代女」にざらに反復されている「ちょっとした事を書いたのでした」(p.169)「私はその事を正直に書いたのです」(p.170)「見たところ感じたところを、そのまま書いたら、それでもう立派な文学だ」(p.181)という風に太宰において書くことはありのままを正直に表現したものであったと言える。実際、彼が1941618日小山清に送った手紙に「いつまでも自分の触覚で感じた感動」だけは「正直に表現していきたい」[5]と記述したのは前述した「千代女」のあれと大幅似ている。

素材や内容は限られ、表現の自由さえ許されない戦時体制の中で自己瞼裂と出版社による間接的な瞼裂を意識しつつ創作活動を続かなければならなかった政治主導的文学について太宰は「自分の頭に錆びた鍋でも被ってゐるやうなとつても重くるしい」(p.168)気分になって「ありのままに」「正直に」「書けない」というふうに主体的な立場を立て通しているのである。

 

 

どうしたら、小説が上手になれるだらうか。きのふ私は、いまに気が狂ふのかも知れません。p.183

 

 

一方、憂鬱な時節にどのようにして書いたらいいのかという太宰の悩みは「私」という語り手にもちゃんと反映されていると思われる。1939年の文学系の評論は当時の主流となった戦争文学、大陸文学のような国策文学の「素材」主義的な傾向に立ち向かい、私小説の勢力の回復を軸とする芸術派が批判を加えるようになった。所謂「素材派」と「芸術派」の対立と呼ばれるこの「私小説論争」は「素材」対「芸術」という双方の主張が表すように文学において時局に適切な「素材」を重視するべきか、作家自身の「私」を重視するべきかということであって、同時代の作家に自身の文学に対した所信を強要していたのである。

この「素材派」と「芸術派」の論争はまた1941年「時代」と「私小説」の形になって先鋭に対立した。亀井秀夫は1940年末から194112月の太平洋戦争に至るまでのおよそ1年間を「文学上の最大の転回、屈折点」と観、この時期に私小説の問題が再び論争になった背景には私小説作家だという点から「半時局性」の非難を免ぬかれず、「革新的自己反省」を強く強引されたという面を指摘している。[6] 彼の思想は「千代女」だけでなく太宰の他の中期文学にも確認できる。

 

 

素材は、小説でありません。素材は、空想を支へてくれるだけであります。私は、今まで六囘、たいへん下手で赤面しながらも努めて来たのは、私のその愚かな思念の実証を、読者にお目にかけたかつたが為でもあります。(「女の決闘」『全集3』、p.226

 

 

「女の決闘」が書かれた翌年「千代女」が生み出されたことを思うと前期の作品群と比べ、彼の中期作品に「書き」に対した苦痛と信念が溶け込んでいることは疑う余地がないようにも思われるのである。金京淑はこのような半時局性の太宰文学にについて「「私小説」を「私」の「信条」と設定しているのは国策文学が中心となった当時の文学系に向かっての反発」だと評価した。また「「滅私奉公」という「公」の論理が価値判断の基準として徹底に讃美された当時に「私小説作家」という理由だけで「非時局性」を非難された彼は逆説的に作品の中で「私」を表出すること」、また「同時にそのような作家自身の表現方法を強調することによって「公」の支配論理を乗り越え、文学者として戦争の時代を生きていこうとした太宰」[7]と評価した。「千代女」の「私」という、また狂っていく語り手はこういう半時局性を非難されつつも決して妥協するとしなかった太宰自身ではなかっただろうか。

 

 

2.千代女の性格の問題

 

 和子が綴り方はもう書きたくないと思った理由は大きく四つに分けることができる。まず一つ目は何気なく投書した綴り方が当選して世間の注目を浴びることになり負担や不安などの感情を感じたこと、二つ目は学校で先生に特別扱いされたり、友達にいじめられたりしたこと、三つ目は綴り方のため家族間にいざこざが起こったこと、四つ目はやりたくないのに強引に押し付けられたこと、という理由である。和子は綴り方による「不安」「負担」「恐怖」「はにかみ」「孤独」「苦しみ」などの複雑な感情を持っていると言える。そしてこのような否定的な感情は和子に「自虐」「分裂」の感情を齎すことになる。

 

 

私は息がくるしくなつて、眼のさきがもたもや暗く、自分のからだが石になつて行くやうな、おそろしい気持ちが致しました。こんなに、ほめられても、私にはその値打ちが無いのがわかつてゐましたから、この後、下手な綴り方を書いて、みんなに笑はれたら、どんなに恥づかしく、つらい事だらうと、その事ばかりが心配で、生きてゐる気もしませんでした。 (中略)私のその心配は、その後、はたして全部、事実となつてあらはれました。p.171

 

 

さつそく母と、ひどい言ひ争ひになりました。茶の間の言ひ争ひを、私は勉強室で聞きながら、思ふぞんぶんに泣きました。私の事で、こんな騒ぎになつて、私ほど悪い不孝な娘は無いといふ気がしました。こんな事なら、いつそ、綴り方でも小説でも、一心に勉強して、母を喜ばせてあげたいとさへ思ひましたが、私は、だめなのです。もう、ちつとも何も書けないのです。文才とやらいふものは、はじめから無かつたのです。雪の降る形容だつて、澤田先生のはうが、きつと私より上手なのでせう。私は、自分では何も出来やしない癖に、澤田先生を笑つたりして、なんといふ馬鹿な娘でせう。さらさらひらひらといふ形容さへ、とても私には、考へつかぬ事だつた。私は、茶の間の言ひ争ひを聞きながら、つくづく自分をいけない娘だと思ひました。p.180

 

 

和子はいつか下手な綴り方を書いて恥をかかせるようになることを心配し(またはそのような事態になった場合他の人からどう思われるかの、人に対した恐れを抱き)、当選までした自分の綴り方を見下し、親の口喧嘩の原因が自分にあることを確信しつつある。ところで、和子のこのような「幼弱な性格」は結構馴染みのあることだと思われる。山岸外史の「太宰と恐怖」[8]をはじめ、特に彼の晩年に執筆された『人間失格』の数多くの研究では主人公大場洋三の生と太宰の生をそのまま重ならせ考察している。

1章で筆者は「千代女」は憂鬱な時局の中、太宰の「書き」または「執筆」に対した「志」とみた。そしてまた筆者が1章で考察したように「私」という一人称の語り手は彼の文学信念を証明する仕掛けでありながら、「私」というのが私小説作家であった太宰と決して無関係でないとみた。三順は「『人間失格』論:<洋三>の恐怖及び破滅の要因」[9]で精神発達理論、幼児精神健康を引用し、「太宰は権威的で厳しい父のもとで消極性や劣等感を持つことにより、不安は深まり恐怖は深化された。」と指摘している。

 

 

「伸ばしてみたつて、どうにもなりません。女の子の文才なんて、たかの知れたものです。一時の、もの珍しさから騒がれ、さうして一生を台無しにされるだけの事です。和子だつて、こはがつてゐるのです。女の子は、平凡に嫁いで、いいお母さんになるのが一ばん立派な生きかたです。お前たちは、和子を利用して、てんでの虚栄心や公明心を満足させようとしてゐるのです。」(p.174

 

 

では和子の父に観られる家父長的態度もまた和子を幼弱に消極的にさせ、劣等感まで抱くようにさせたとみることも無理ではなかろう。しかし、三順の『人間失格』の研究とは違って、「千代女」には父のみならず、登場する全ての男の人が権威的で家父長的な面貌を持っているということに目が引かれる。

 

 

「岩見さんは、まだお年も若いのに、なかなか立派な人だ、こちらの気持ちも充分にわかつて下さつて、かへつて向うのはうから父にお詫びを言つて、自分も本党は女のお子さんには、あまり文学をすすめたくないのだ、とおつしやつて、はつきり名前は言はなかつたが、やはり柏木の叔父さんから再三たのまれて、やむなく父に手紙を書いた御様子であつた、と父は、母と私に語つて下さいました。」(p.175

 

 

「千代女」に登場する男性は「ちち」「叔父さん」「岩見先生」「澤田先生」などがいるが、権威的なイメージを持つのは4人一緒で、家父長的なイメージを持っているのは父と岩見先生だけだといえる。父と岩見先生は女の子に文学はさせたくない、という立場で一貫していて、叔父さんと澤田先生は才能もあるし、努力さえすれば女の子とは関係なく成功することができるという立場である。この四人のスタンスは少しずれているように見えるがどちらも和子を圧迫していることには変わりがない。したがって彼女の幼弱で依存的な姿は周りのひとに基づいたものだと考えることができる。つまるところ、和子の幼弱な性格は作品内的では和子をめぐる周囲の圧迫または家父長的な態度が影響を及ぼされたと見えるが、このような幼弱な性格自体は作家である太宰の育った環境ともとてもよく似ているように思われるので和子の性格は太宰の性格と緊密に繋がっているということである。

また金京淑[10]が指摘しているように太宰が「自分の文学については常に主体的な姿勢をとっていたこと」は明白であるが、「同時にそのような自分が志向する文学と思想との乖離感は自己批判と挫折感を齎す原因となった」。そしてこの乖離感は前述した時代を支配する支流ということから発生せられたものともいえるだろう。

河廷旼は「太宰治における中期の女性についての一考察」[11]で「太宰においては、女性というものは、特別な存在であり、女性を通じ、自己発見を目指していた」といいながらフロイトの理論を引用し太宰の中期文学を中心に彼の文学に登場する「女」のイメージを三つに分けて説明している。一つ目は「母性的な女性」で母より叔母と親しく育てられた彼が無意識の中女性に対して母性を求めているということで、二つ目は「自己投影的女性」で、三つ目は「崇拝の対象としての女性」である。あいにくここに「千代女」は言及されていないが、筆者は「千代女」の和子が太宰の「自己投影的な女性」に含まれるに十分であると思う次第である。

奥野健男は太宰は欠如感覚を持っていてれきっとしなく、いつも不安や孤独感にせまられる惰弱なものとしての自分を主張することで自分のように罪意識にせまられる大勢の人を安心させる力になってくれることができると信じ、そのような自信を主張しようとした[12]という。筆者はこの部分が肝心要のところだと思う。

 

 

Ⅲ.おわりに

 

以上で1941年に執筆された「千代女」における「書けない理由」を1章の「環境のプレッシャー」と2章の「千代女の性格の問題」に分けて検討してみた。

和子は先生や叔父また母にそれぞれ「「才能」が無いから」「「誠実」でないから」を理由に書けないと聞いていて彼女もそれをそのまま受け入れながら自分を馬鹿にし、どうしたらうまく書けるのか絶叫しながら苦しんだ。

1章ではそのような和子の周囲から圧迫される姿、書けない苦しみに対し、1941年を前後とした日本の戦時体制の中で自由に「書けない」作家たちを指摘しつつ、同時代に送った手紙を通じて太宰の追求した「ありのまま」文学観を考察してみた。つまるところ、彼は厳しいマスコミや文学の瞼裂があった時代に思うままの文学を「書けにくかった」しかも彼の私小説作家という立場は「非時局性」を非難される中でとても重苦しかったのかもしれない。また同じ中期文学で代表される「女の決闘」で観られるように41年を前後とした彼の中期文学には「書き」への主体的な態度がそのまま描いていることが確認できた。一方、「千代女」が一人称小説というのを思えば「書けない和子」は「書けにくかった太宰」である可能性が高い。

2章では和子の持つ諸々の否定的な感情がそのまま太宰の持つ感情に重なることを考察してみた。和子の持つ「幼弱さ」は太宰の研究で太宰の性格とよく指摘される要素であって、これは家父長的で権威的な父のもとで育てられた幼児によくあることだと論じた論から、和子の幼弱な性格が太宰のように周囲の人の影響をうけた可能性を示した。また前章で考察してみたように戦時体制の中、支流に背けて主体的な文学を書くことに何らかの乖離感を抱いていたかもしれず、自虐する和子は彼のそのような分裂の一段である可能性を示した。

結局、1章、2章での考察を総合して太宰は時代の大きな流れに逆らい、主体的な文学を書こうと悩んだ、「千代女」には彼のそのような「書き」への悩みがそのまま染み込んでいて、またその支流に争いつつも、彼の幼弱な性格のため乖離する、分裂する自我が和子に投影されたといえる。

筆者はそのような乖離感による「悩み」「苦しみ」が彼の文学の中での「生き方」乃至は「存在様式」と観られ、「千代女」を通じてそのようなわずかな考察が出来たと思う次第である。

【参考文献】

 

【テキスト】

太宰治、『太宰治全集』第4巻、筑摩書房、1986.12

太宰治、『太宰治全集』第11巻、筑摩書房、1977

 

【単行本】

奥野健男、「太宰論」『批評と研究 太宰治』岩波書店、1972

日本文学研究資料刊行会 編、『―太宰治―日本文学資料叢書』第16巻、有精堂、1975.4

三好行雄 、『近代日本文学史』、有斐閣、1975

亀井秀夫、『戦時下の私小説問題―その『抵抗』の姿』日本文学研究資料叢書『昭和の文学』、 有精堂、1981

坂本忠雄 編、『昭和の文學』、新潮社、1989

曽根博義 編、『昭和文学全集別巻』、小学館、1990

岩波書店編集部、『近代日本総合年表』、岩波書店、1991

柴口順一、「「千代女」から女性白体へ、そして太宰治へ」、山祥史 編、『太宰治究7』、和泉書院、2000

チョン・インムン、『日本近·現代作家研究』、ゼイエンシ、2005.1

 

【論文雑誌】

三順 、「『人間失格』論:葉蔵の恐怖と破滅の要因」、『日本語教育研究』第42000.12

パク・セヨン、「太宰治の存在様式」、『韓国文化研究』第6巻、2001.12

河廷旼、「太宰治における中期の女性についての一考察」、『日語日文學』第27集、2005.8

鄭芙蓉、「太宰治における芸術至上主義」、『日本語文学』第382007.8

金京淑、「太宰治における「私」について」、『日本文化研究』第472013.7

 

【辞典】

志村有弘·渡部芳紀 編、「千代女」・「年譜」『太宰治大辞典』、勉誠、2005.01



[1] この区分は主に作風と作家の実生活を反映したものであって奥野健男によって提唱された。

[2] 志村有弘·渡部芳紀 編、「千代女」『太宰治大辞典』、勉誠、2005p.545

[3] 前掲書、pp.555546参照

[4] 1938年は社会主義の傾向が強かった『人民文庫』が強引に廃刊され、中国戦争の惨状を書いた石川達三の『生きてゐる兵隊』を掲載したゆえに『中央公論』3月呉が発売禁止に取り計らわせられた。のみならず、時局に批判的であった宮本百合子や中野重治をはじめ多くの文学家に執筆禁止乃至保護観察処分が下されたのも1938年の年末であった。(曽根博義、「昭和文学史Ⅱ戦前・戦中の文学―昭和8年から敗戦まで」『昭和文学全集別巻』、小学館、1990pp.380381 参照)

[5] 太宰治、『太宰治全集』第11巻、筑摩書房、1977p.217 参照

[6] 亀井秀夫、『戦時下の私小説問題―その『抵抗』の姿』日本文学研究資料叢書『昭和の文学』、 有精堂、1981p.156 参照

[7] 金京淑、「太宰治における「私」について」、『日本文化研究』第472013.7pp.1920

[8] 山岸外史、『人間太宰』、角川文庫、1964p.312320

[9] 三順、「『人間失格』論:<洋三>の恐怖及び破滅の要因」『日本語教育研究』第4、2000.12pp.86115 参照

[10] 金京淑、前掲書、p.10

[11] 河廷旼、「太宰治における中期の女性についての一考察」、『日語日文學』第27集、2005.8

[12] 奥野健男、「太宰論」『批評と研究 太宰治』岩波書店、1972p.21

'발표자료' 카테고리의 다른 글

人間失格講釈付き  (0) 2015.04.22
Posted by prajna_
발표자료2015. 4. 22. 01:16

 

 

 

太宰治『人間失格』[1]講釈及解釈

p.308の下段からp.316の上段まで―

 

 

1. 텍스트(1/10)

원 문

한국어 역

自分が黙って、もじもじしているので、父はちょっと不機嫌な顔になり、

 「やはり、本か。①浅草②仲店にお正月の③獅子舞いのお獅子、子供がかぶって遊ぶのには手頃な大きさのが売っていたけど、欲しくないか」

  欲しくないか、と言われると、もうダメなんです。お道化た返事も何もできやしないんです。お道化役者は、完全に落第でした。

 「本が、いいでしょう」

  長兄は、まじめな顔をして言いました。

 「そうか」

  父は、興覚め顔に手帖に書きとめもせず、パチと手帖を閉じました。

  何という失敗、自分は父を怒らせた、父の復讐は、きっと、おそるべきものに違いない、いまのうちに何とかして取りかえしのつかぬものか、とその夜、蒲団の中でがたがた震えながら考え、そっと起きて客間に行き、父が先刻、手帖をしまい込んだはずの机の引き出しをあけて、手帖を取り上げ、パラパラめくって、お土産の注文記入の個所を見つけ、手帖の鉛筆をなめて、シシマイ、と書いて寝ました。  

내가 입을 다문 채 우물쭈물하고 있자 아버지는 조금 언짢은 얼굴이 되어

역시 책이냐. ①아사쿠사에 있는 ②나카미세③설날 쓰는 사자춤에 사자탈을 아이가 쓰고 놀기에 적당한 크기로 팔고 있던데 갖고 싶지 않으냐

갖고 싶지 않느냐고 물으면 이제는 틀린 것입니다. 익살스러운 대답도 무엇도 할 수가 없는 것입니다. 익살꾼으로는 완전히 낙제였습니다.

책이 좋을 겁니다

큰형은 진지한 얼굴을 하고 말했습니다.

그러냐

아버지는 흥이 깨진 얼굴로 수첩에 적지도 않은 채 탁하고 수첩을 덮었습니다.

도대체 이게 무슨 실수란 말인가, 나는 아버지를 화나게 했다, 아버지의 복수는 분명 끔찍할 게 틀림없다, 이 틈에 어떻게든 만회할 수 없을까나는 그날 밤 이불 속에서 덜덜 떨며 생각하다가 슬며시 일어나 객실에 가서 아버지가 아까 수첩을 넣어두었을 책상 서랍을 열고 수첩을 집어 들고 종이를 팔랑팔랑 넘겨서 선물 주문기입 부분을 찾아내어 수첩과 같이 두었던 연필에 침을 발라 사자탈이라고 쓰고 잤습니다.

 

2. 강석 및 해설

①아사쿠사(浅草)

아사쿠사는 도쿄도(東京都) 타이토구(台東)의 동명. 또는 옛 도쿄 시 아사쿠사구(浅草区)의 범위를 가리키는 지역명으로 협의하게는 아사쿠사절 주변의 번화가를 가리키는 명칭으로도 쓰인다. 위에서는 이어지는 문장으로 보아 두 번째 의미인 아사쿠사절 주변의 번화가를 뜻함을 알 수 있다.

아사쿠사는 다자이 문학에 종종 등장하는 무대로「ダスゲマイネ」「狂言」「」「正義微笑」「たずねびと」「人間失格」등에 등장하고 있다.

 

 

②나카미세(仲店/仲見世)

아사쿠사절의 입구에 해당하는 카미나리몬(雷門)에서부터 본당(本堂)까지를 잇는 경내 길의 양 옆으로 줄지어있는 상점가. 현재 경내의 상가는 동쪽으로 54, 서쪽으로 35, 합계 89개의 매장이 있으며 길의 길이는 약 250m라고 한다.

 

③설날 쓰는 사자춤에 사자탈

사자 탈을 머리에 쓰고 춤추는 전통 예능인 사자춤(獅子舞)의 기원은 중국유래설, 인도유래설 등이 있으나 어느 것도 정확하지는 않다. 사자춤이 일본 각지로 확산된 것은 무로마치(室町)시대부터 에도(江戸)시대 초기이며 일본 각지의 설 맞이 행사와 길한 액병퇴치등을 기원하는 의미로 행해지고 있다.

 

※사진자료※

<그림1>아사쿠사 카미나리몬             <그림2>나카미세 도오리    <그림3>나카미세

  

<그림4>사자탈                 <그림5>어린아이용 사자탈

<그림1>다자이의 친부    <그림2>다자이(7)가족사진              <그림3>다자이(15)형제사진

 

1. 텍스트(2/10)

원 문

한국어 역

自分はその獅子舞いのお獅子を、ちっとも欲しくはかったのです。かえって、本のほうがいいくらいでした。けれども、自分は、父がそのお獅子を自分に買って与えたいのだということに気がつき、父のその意向に迎合して、父の機嫌を直したいばかりに、深夜、客間に忍び込むという冒険を、()えておかしたのでした。

そうして、この自分の非常の手段は、果して思いどおりの大成功をもって報いられました。やがて、父は東京から帰って来て、母に大声で言っているのを、自分は子供部屋で聞いていました。

 「仲店のおもちゃ屋で、この手帖を開いてみたら、これ、ここに、シシマイ、と書いてある。これは、私の字ではない。はてな? と首をかしげて、思い当りました。これは、葉蔵のいたずらですよ。あいつは、私が聞いた時には、にやにやして黙っていたが、あとで、どうしてもお獅子が欲しくてたまらなくなったんだね。何せ、どうも、あれは、変った坊主ですからね。知らん振りして、ちゃんと書いている。そんなに欲しかったのなら、そう言えばよいのに。私は、おもちゃ屋の店先で笑いましたよ。葉蔵を早くここへ呼びなさい」

 

  また一方、自分は、下男や下女たちを洋室に集めて、下男のひとりに滅茶苦茶にピアノのキイをたたかせ、(田舎ではありましたが、その家には、たいていのものが、そろっていました)自分はそのでたらめの曲に合せて、インデヤンの踊りを踊って見せて、皆を大笑いさせました。次兄は、フラッシュを()いて、自分のインデヤン踊りを撮影して、その写真ができたのを見ると、自分の腰布(それは更紗の風呂敷でした)の合せ目から、小さいおチンポが見えていたので、これがまた家中の大笑いでした。自分にとって、これまた意外の成功というべきものだったかも知れません。

나는 사자탈을 조금도 갖고 싶지 않았습니다. 오히려 책 쪽이 좋을 정도였습니다. 하지만 나는 아버지가 그 사자탈을 내게 사주고 싶어한다는 사실을 알고 아버지의 의중을 따름으로 다시 아버지의 기분을 좋게 해드리기 위해 일부러 늦은 밤 객실에 몰래 숨어드는 모험을 감행했던 것이었습니다.

그리하여 바로 그러한 나의 비장의 수단은 역시 생각했던 대로의 대성공을 거두었습니다. 얼마 안지나 아버지가 도쿄에서 돌아와 어머니에게 큰 소리로 말하는 것을 나는 ❖내 방에서 듣고 있었습니다.

나카미세의 장난감 가게에서 이 수첩을 펴보니 이거, 여기에, 사자탈, 이라고 쓰여져 있는 것 아니겠소. 이건 내 글씨가 아니오. 어라? 하고 고개를 갸웃거리다가 딱 생각이 났소. 이건 요조의 장난이오. 그 녀석은 내가 물었을 때는 히쭉거리며 아무 말도 하지 않았는데 나중에 도저히 사자탈이 갖고 싶어 견딜 수가 없게 됐던 거요. 어쨌든 거참 별난 녀석이니까 말이오. 모르는 척하고 야무지게 적어놓은 것 좀 보라지. 그렇게 갖고 싶었으면 그렇다고 말하면 될걸. 장난감 가게 앞에서 웃었다오. 어서 요조를 이곳으로 불러요

 

또 한편으로 나는 하인과 하녀들을 서양식 방에 모아놓고 하인 한 명에게 아무렇게나 피아노 건반을 치게 하고(시골이기는 했지만 그 집에는 대개의 것들이 갖추어져 있었습니다)나는 그 엉터리 곡에 맞춰 인디언 춤을 춰 보이는 것으로 모두를 박장대소 시켰습니다. 둘째 형은 플래시를 터뜨려서 내 인디언 춤을 찍었습니다. 사진이 나온 것을 보니 자신이 허리에 두르고 있던 천(그것은 사라사 무늬의 보자기였습니다)의 이음매에 작은 고추가 보였기 때문에 이것이 또 집안의 큰 웃음거리였습니다. 내게 있어서는 이것 역시 뜻밖의 성공이라고 할 수 있는 것이었는지도 모르겠습니다.

 

 

2. 강석 및 해설

①서양식방(洋室)

일본 전통의 방식으로 다다미를 깐 화실(和室)과는 달리 목재를 사용한 바닥을 하고 서양풍으로 장식한 방을 주로 뜻하나 응접실이나 객실을 뜻하기도 한다.

 

②사라사 무늬(更紗)

사라사는 포르투갈어로 다섯 가지 빛깔을 이용하여 인물, 조수(鳥獸), 화목(花木)또는 기하학적 무늬를 물들인 피륙, 또는 그 무늬를 말한다.

 

 

 

 

※사진자료※

 

<그림1>다자이 사양관(아오모리현 소재)           <그림2>서양관에 재현되어 있는 서양식 방

<그림3>여러 패턴의 사라사무늬

 

1. 텍스트(3/10)

원 문

한국어 역

 

  自分は毎月、新刊の少年雑誌を十冊以上も、とっていて、またその他にも、さまざまの本を東京から取り寄せて黙って読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、また、ナンジャモンジャ博士などとは、たいへんな馴染で、また、怪談、講談、落語、江戸小咄などの類にも、かなり通じていましたから、剽軽なことをまじめな顔をして言って、家の者たちを笑わせるのにはことを欠きませんでした。

 しかし、嗚呼(ああ)、学校!

  自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、甚だ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされたことに気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。

나는 신간 소년잡지를 매달 열 권 이상이나 구독하고 있었고 또 그 밖에도 도쿄에 여러 책들을 주문해서 읽고 있었기 때문에 ❖엉터리박사라든가 ❖척척박사 등이 매우 친숙했고 또 괴담, 야담, 라쿠고, ③에도고바나시 같은 종류도 꽤 자세히 꾀고 있었기 때문에 진지한 얼굴로 우스갯소리를 해서 가족들을 웃게 만드는 데 곤란함을 겪을 일은 없었습니다.

그러나 아아, 학교!

나는 그곳에서 존경 받을 뻔 했습니다. 존경 받는다고 하는 관념은 또한 나를 몹시 두렵게 만들었습니다. 거의 완벽에 가깝게 인간을 속였는데 어떤 한 명의 전지전능한 자에게 간파 당하여 산산조각이 나서 죽는 것보다도 더한 창피를 당하는 것, 그것이 존경 받는다고 하는 상태에 대한 자신의 정의였습니다. 인간을 속이고 존경 받아도 누구 하나가 알고 있어 다른 인간들도 결국에는 그 한 명으로부터 전해 듣고 속았다는 것을 알았을 때, 그 때의 인간들의 분노와 복수는 대체 어떠할까요. 상상하는 것만으로도 온 몸의 털이 곤두서고 소름이 끼치는 기분이 드는 것입니다.

 

2. 강석 및 해설

엉터리 박사(メチャラクチャラ博士)

엉터리 박사소년클럽(少年()()())라는 잡지에 게재되었던 우스운 대학(滑稽大)이라는 코너의 캐릭터이다.소년클럽 1 50()정도였다고 하는데 이 사실로 미루어볼 때 요조가 매달 신간 소년 잡지를 10권이나 구독하고 있었다는 것은 잡지를 사는 데에만 한 달에 약 5엔 정도를 쓰고 있었다는 뜻이 된다. 다자이(1909) 10살 무렵은 다이쇼10년 전후가 되는데 당시의 물가로 쌀 60kg의 가격은 약 10, 샐러리맨의 평균 소득은 20-30엔이었다고 하니 위 대목은 요조의 집이 상당히 부유했음을 간접적으로 제시하는 부분이라고 할 수 있다.

 

척척 박사(ナンジャモンジャ博士)

만화 동화 척척박사어머니의 친구()라는 잡지에 1985 4월호부터 현재까지 연재되고 있는 인기 시리즈이다.

 

③야담(講談)

야담은 일본의 전통 예능의 하나이다. 출연하는 사람은 설교단(高座)이라고 불리는 작은 책상 앞에 앉아 하리오오기(; 외부를 종이로 싸 바른 부채로 만담가는 이야기를 하면서 책상을 두들기며 가락을 맞춘다)두드려 장단을 취하면서 군담물과 정치, 주로 역사에 관련된 읽을 거리를 관중에게 읽어준다.

 

④에도고바나시(戸小咄)

메이와(明和)~야스나가(安永)(1764~81)무렵 에도에서 유행한 토막 이야기 형태의 우스운 이야기()를 말한다. 많은 수의 이야기들이 만들어지고 또 구연되었다. 상류사회에서 만들어져 그런 취향이 반영되어 있는 재담이었기 때문에 대화나 문장 등이 가볍고 세련되었으며 간결한 대화를 특징으로 한다. 기록에 의하면 다자이는 쇼와 2(1927, 다자이 18) 8월쯤에 다케모토(竹本咲栄)에 배우는 등, 에도고바나시에 능통하였다고 한다.

 

 

※사진자료※

 

 

            

<그림1>엉터리박사          <그림2>소년클럽 잡지(쇼와13 3월호)       <그림3>소년클럽2

 

 

 

 

 

 

<그림4>척척박사(2003.10,단행본) <그림5>척척박사2                     <그림6>야담

 

 

1. 텍스트(4/12)

원 문

한국어 역

自分は、金持ちの家に生れたということよりも、俗にいう「できる」ことによって、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだことさえあったのですが、それでも、病み上りのからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。からだ具合いのよい時でも、自分は、さっぱり勉強せず、学校へ行っても授業時間に漫画などを書き、休憩時間にはそれをクラスの者たちに説明して聞かせて、笑わせてやりました。また、綴り方には、滑稽噺(こっけいばなし)ばかり書き、先生から注意されても、しかし、自分は、やめませんでした。先生は、実はこっそり自分のその滑稽噺を楽しみにしていることを自分は、知っていたからでした。或る日、自分は、れいにって、自分が母に連れられて上京の途中の汽車で、おしっこを客車の通路にある痰壺(たんつぼ)にしてしまった失敗談(しかし、その上京の時に、自分は痰壺と知らずにしたのではありませんでした。子供の無邪気をてらって、わざと、そうしたのでした)を、ことさらに悲しそうな筆致で書いて提出し、先生は、きっと笑うという自信がありましたので、職員室に引き揚げて行く先生のあとを、そっとつけて行きましたら、先生は、教室を出るとすぐ、自分のその綴り方を、他のクラスの者たちの綴り方の中から選び出し、廊下を歩きながら読みはじめて、クスクス笑い、やがて職員室にはいって読み終えたのか、顔を真赤にして大声を挙げて笑い、他の先生に、さっそくそれを読ませているのを見とどけ、自分は、たいへん満足でした。

나는 부잣집에 태어났다고 하는 것보다도 세상에서 흔히 말하는 우수하다고 하는 것 때문에 학교에서 존경 받게 될 뻔 했습니다. 나는 어렸을 적부터 병약해서 자주 한 달, 두 달, 또 한 학년 가까이도 몸져누워 학교를 쉰 적까지 있었습니다만 그래도 막 병이 나은 몸으로 인력거를 타고 학교에 가서 학년말 시험을 치고 보니 반의 누구보다도 우수했던 모양입니다. 몸 컨디션이 좋을 때도 나는 전혀 공부하지 않고 학교에 가서도 수업시간에 만화 따위를 그리고 휴식시간에는 그것을 반 아이들에게 설명해주며 웃게 만들었습니다. 또 작문시간에는 우스갯소리만 써서 선생님께 주의를 받았지만 나는 그만두지 않았습니다. 사실 선생님이 은근히 나의 그 우스갯소리를 즐기고 있다는 것을 알고 있었기 때문입니다. 어느 날 나는 여느 때와 같이 어머니를 따라 상경하던 도중, 기차 안 객차 통로에 있는 ①타구(唾口)에 오줌을 누고 말았던 실수담(결코 나는 그것이 타구라는 것을 모르고 그런 짓을 했던 것은 아니었습니다. 아이의 천진함을 뽐내려 일부러 그렇게 했던 것이었습니다)을 짐짓 슬픈 듯한 필치로 써서 제출했습니다. 선생님이 분명 웃으실 거라는 자신이 있었기 때문에 교무실로 돌아가는 선생님 뒤를 몰래 따라갔습니다. 선생님은 교실을 나가자마자 내 작문을 다른 반 아이들의 작문 속에서 골라내어 복도를 걸으면서 읽기 시작했습니다. 그리고 키득키득 웃으며 마침내 교무실에 들어가서 다 읽었는지 얼굴이 빨개져서 큰 소리로 웃으며 다른 선생님들에게 당장 그것을 읽게 하는 것을 마지막까지 지켜보고 나는 꽤나 만족했습니다.

 

2. 강석 및 해설

①타구(痰壺)

가래나 침을 뱉는 그릇으로 우리나라에서는 타구(唾具/唾口), 타기(唾器), 타호(唾壺) 같이 적는다.

열차 내에 타구가 설치된 것은 메이지 37(1904) 2월로 당시 일본은 부국 강병의 자구책의 일환으로써 결핵 퇴치라는 기치를 내건 바 있다. 그리하여 폐 결핵 예방 규칙(肺結核予防規則,明治3724,内務省令第1)에 따라 모든 역에는 타구 설치가 강제되었고 곧 이것은 열차 내 객실에도 설치된다. 이 규칙은 쇼와26(1951) 결핵 예방법으로 이어져 헤이세이17(2005) 4월 결핵 예방법 시행 세칙 제 16조가 개정될 때까지 지속되었다. 쇼와 2년의 객실 형식도를 보면 전전의 객차 내에는부분(그림1참조)과 같은 것이 보이는데 이것이 바로 통로 바닥에 동그란 구멍을 뚫어 설치한 타구이다. 또한 타구는 화장실 세면대 옆에도 비치되어 있었으며 쇼와13(1938)에는 흡연실에도 설치하도록 하였다.

당시는 현재 일반적으로 행해지고 있듯이 수도꼭지를 틀면 바로 물이 나오는 형태가 아니라 우물이나 물 항아리에서 물을 떠다가 일이 있을 때마다 세면기에 부어 이용하는 형태였기 때문에 토물이나 객담 같은 오물로부터의 오염을 막기 위하여 따로 타구를 설치함으로써 국민위생을 증진했던 것으로 추정된다. 따라서 텍스트 속 타구의 존재는 시대배경을 반영하고 있다는 점에서 컨텍스트적 요소로 볼 수 있을 것이다.

 

※사진자료※

   

<그림1>열차내 타구의 위치                          <그림2>열차내 흡연실 타구(쇼와13) <그림3>역내 타구

 

 

1. 텍스트(5/12)

원 문

한국어 역

 お茶目。

  自分は、所謂お茶目に見られる事に成功しました。尊敬される事から、のがれることに成功しました。通信簿は全学科とも十点でしたが、操行というものだけは、七点だったり、六点だったりして、それもまた家中の大笑いの種でした。

  けれども自分の本性は、そんなお茶目さんなどとは、およそ対蹠的(たいせきてき)なものでした。①そのころ、すでに自分は、女中や下男から、哀しいことを教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのようなことを行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。しかし、自分は、忍びました。これでまた一つ、人間の特質を見たというような気持さえして、そうして、力無く笑っていました。もし自分に、本当のことを言う習慣がついていたなら、悪びれず、彼らの犯罪を父や母に訴えることができたのかも知れませんが、しかし、自分は、その父や母をも全部は理解することができなかったのです。人間に訴える、自分は、その手段には少しも期待できませんでした。父に訴えても、母に訴えても、お巡まわりに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけのことではいかしら。

  必ず片手落ちのあるのが、わかり切っている、所詮、人間に訴えるのは無駄である、自分はやはり、ほんとうのことは何も言わず、忍んで、そうしてお道化をつづけているより他、ない気持なのでした。

장난꾸러기.

나는 소위 장난꾸러기로 보이는데 성공했습니다. 통지표는 전과목 모두 10점이었지만 품행점수만큼은 7점이었다가 6점이었다가 해서 그것이 또한 가족들을 박장대소하게 만드는 원인이었습니다.

그렇지만 나의 본성은 그런 장난꾸러기 따위와는 아주 대척되는 것이었습니다. ①그 무렵 이미 나는 ❖하녀와 하인으로부터 슬픈 짓을 배워 더럽혀져 있었습니다. 나는 지금까지 어린아이를 상대로 그런 짓을 하는 것은 인간이 저지를 수 있는 범죄 중에서도 가장 추악하고 저속하며 잔혹한 범죄라고 생각하고 있습니다. 그러나 나는 참았습니다. 이것으로 또 하나 인간의 특질을 본 것이라는 기분마저 들어 맥없이 웃었습니다. 만일 내게 진실을 말하는 습관이 배어있었다면 주눅들지 않고 그들의 범죄를 아버지나 어머니에게 알리는 것이 가능했을지도 모르겠습니다만 나는 아버지나 어머니마저도 전부 이해할 수는 없었던 것입니다. ‘인간에게 호소한다나는 그 수단에는 조금도 기대할 수 없었습니다. 아버지에게 호소해도, 어머니에게 호소해도, 순경에게 호소해도, 정부에 호소해도 결국은 처세가 능한 사람의 언변에 휘말리는 것뿐 아닐까.

반드시 편파가 있을 것이 뻔하다. 어차피 인간에게 호소하는 것은 쓸데없다. 역시 인간은 진실은 말하지 않고 참으며 익살꾼 노릇을 계속하는 것 외에는 달리 방법이 없다는 기분이었습니다.

 

2. 강석 및 해설

①그 무렵 이미 나는~더럽혀져 있었습니다

위 문장에 대한 해석은 문장의 전후 관계에 따라 크게 두 가지 정도로 나뉠 수 있을 것이다. 일단 첫 번째는 후술로 이어지는 범죄또는 잔혹한 범죄등의 표현으로 미루어볼 때 요조가 하녀와 하인으로부터 성적인 학대를 받았을 가능성이 있다는 것이며 두 번째로는 배웠다고 하는 표현에서 하인과 하녀로부터 일찍 성적인 행위를 배워서 아이의 순수성을 잃은 것을 범죄라고 표현했다고 생각해 볼 수도 있다. 일례로 지방 유지로 명문가에서 태어난 메이지 시대 작가였던 토쿠토미 로카(徳冨蘆花)는 하인들이 많이 있던 집에서 자라 5살 때부터 하녀들과 놀이 친구를 하며 일찍이 성행위를 배워 18세까지 상대한 30명 이상의 여성의 이름을 일기에 기록하고 있다.

 

 

1. 텍스트(6/12)

원 문

한국어 역

 なんだ、人間への不信を言っているのか? へえ? お前はいつ①クリスチャンになったんだい、と嘲笑する人も或いはあるかも知れませんが、しかし、人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らないと、自分には思われるのですけど。現にその嘲笑する人をも含めて、人間は、お互いの不信の中で、エホバも何も念頭におかず、平気で生きているではありませんか。やはり、自分の幼少のころのことでありましたが、父の属していた或る政党の有名人が、この町に演説に来て、自分は下男たちに連れられて劇場に聞きに行きました。満員で、そうして、この町の特に父と親しくしている人たちの顔は皆、見えて、大いに拍手などしていました。演説がすんで、聴衆は雪の夜道を三々五々かたまって家路に就き、クソミソに今夜の演説会の悪口を言っているのでした。中には、父と特に親しい人の声もまじっていました。父の開会の辞も下手、れいの有名人の演説も何が何やら、わけがわからぬ、とその所謂父の「同志たち」が怒声に似た口調で言っているのです。そうしてそのひとたちは、自分の家に立ち寄って客間に上り込み、今夜の演説会は大成功だったと、しんから嬉しそうな顔をして父に言っていました。下男たちまで、今夜の演説会はどうだったと母に聞かれ、とても面白かった、と言ってけろりとしているのです。演説会ほど面白くないものはない、と帰る途々(みちみち)、下男たちが嘆き合っていたのです。

어쩌면 뭐야, 인간에 대한 불신을 말하고 있는 거냐? 그래? 대체 네가 언제부터 ①기독교인이 된 건데?”라고 비웃는 사람도 있을지도 모르겠습니다. 하지만 나는 인간에 대한 불신이 반드시 종교의 길로 통하는 것만은 아니라고 생각됩니다. 실제로 예의 조소하는 사람을 포함하여 인간은 서로 불신 속에서 여호와고 뭐고 염두에 두지 않고 태연하게 살아가고 있지 않습니까. 역시 내 어린 시절의 일입니다만 아버지가 속해있던 어느 정당의 유명인이 이 마을에 연설을 하러 와서 나는 하인들을 따라 극장으로 그것을 들으러 갔습니다. 극장 안은 만원이었습니다. 특히 이 마을에 아버지와 친하게 지내는 사람들의 얼굴이 모두 보였고 그들은 크게 박수들을 치고 있었습니다. 연설이 끝나고 눈이 내린 밤길을 삼삼오오 무리 지어 집으로 돌아가기 시작하던 청중들은 오늘 밤의 연설회에 대해 마구 험담을 하고 있었던 것이었습니다. 그 중에는 아버지와 특히 친한 사람의 목소리도 섞여 있었습니다. 아버지의 개회사도 서툴렀고 예의 유명인의 연설도 뭐가 뭐라는 것인지 내용을 알 수가 없었다며 소위 아버지의 동지들이 자못 화가 난 것 같은 어조로 말하고 있는 것 입니다. 그리고 나서 그 사람들은 우리 집에 잠시 들러 객실에 앉아 아버지에게 오늘 밤의 연설회는 대성공이었다며 진심으로 기쁜 듯한 얼굴을 하고 말하고 있었습니다. 어머니가 하인들에게까지 오늘 밤의 연설회는 어땠느냐고 묻자 그들은 아주 재미있었다며 마치 언제 그랬냐는 듯이 천연덕스럽게 있는 것이었습니다. 사실 하인들은 연설회만큼 재미없는 것도 없다고 돌아오는 내내 서로 한탄하고 있었습니다.

 

2. 강석 및 해설

①기독교인

다자이와 기독교와의 관계에 대한 해석은 그것이 종교에 관한 문제인 만큼 그 시각 또한 다양하다. 그 시각은 크게 세 가지로 나뉘어지는데 그를 신실한 기독교인으로 보는 시각과 그와 반대되는 다자이는 기독교인이 아니었다고 보는 시각, 마지막으로 그를 무교회주의 기독교라고 보는 시각이 바로 그것이다. 필자는 이 중 세 번째 시각인 무교회주의 기독교에 동의하는 바이다. 다자이의 교회에는 가지 않습니다만 성서는 읽습니다(教会にはきませんが聖書みます)”(「일문일답(一問一答))라고 하는 말에서 알 수 있듯 다자이의 태도는 명백히 무교회적이라고 할 수 있을 것이다.

 

 

1. 텍스트(7/12)

원 문

한국어 역

 

 しかし、こんなのは、ほんのささやかな一例に過ぎません。互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っていることにさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。けれども、自分には、あざむき合っているということには、さして特別の興味もありません。自分だって、お道化によって、朝から晩まで人間を①あざむいているのです。自分は、修身教科書的な正義とか何とかいう道徳には、あまり関心を持てないのです。自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。人間は、ついに自分にその妙諦(みょうたい)を教えてはくれませんでした。それさえわかったら、自分は、人間をこんなに恐怖し、また、必死のサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。人間の生活と対立してしまって、夜々の地獄のこれほどの苦しみを()めずにすんだのでしょう。つまり、自分が下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ、誰にも訴えなかったのは、人間への不信からではなく、また勿論クリスト主義のためでもなく、人間が、葉蔵という自分に対して信用の(から)を固く閉じていたからだったと思います。父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せることがあったのですから。

  そうして、その、誰にも訴えない、自分の孤独の匂いが、多くの女性に、本能によって()ぎ当てられ、後年さまざま、自分がつけ込まれる誘因の一つになったような気もするのです。

  つまり、自分は、女性にとって、恋の秘密を守れる男であったというわけなのでした。

 

하지만 이런 것은 아주 사소한 일례에 불과합니다. 서로 속이면서도 심지어 양쪽 다 아무런 상처도 받지 않고, 서로 속이고 있는 것조차 모르고 있는 듯한, 실로 산뜻하며 그야말로 깨끗하고 밝고 명랑한 불신의 예가 인간 생활에 충만해 있는 듯이 생각됩니다. 그렇지만 나는 서로 ①속이고 있다고 하는 일에는 별다르게 특별한 흥미도 없습니다. 나 또한 익살로 아침부터 밤까지 인간을 속이고 있는 것입니다. 나는 도덕교과서적인 정의니 뭐니 하는 도덕에는 그다지 관심이 없었습니다. 나는 서로 속이면서도 말쑥하고 밝고 명랑하게 살아가거나, 또 그렇게 살아갈 수 있는 자신이 있는 듯한 인간을 이해하기 어려웠던 것입니다. 인간은 끝끝내 내게 그 묘한 진리를 가르쳐주지 않았습니다. 그것만 알았더라면 나는 인간을 이렇게까지 무서워하지도 또 필사적으로 서비스 따위를 하지 않아도 됐을 것입니다. 인간 생활과 대립하게 되어 밤마다 지옥 같은 고통을 맛보지 않아도 됐을 것입니다. 결국 내가 아무에게도 하인이나 하녀들을 증오해 마땅한 그 범죄조차 알리지 않았던 것은 인간에 대한 불신 때문도, 기독교주의 탓도 아니라 그저 인간이 요조라고 하는 나에 대한 신용의 외피를 굳게 닫고 있었기 때문이었다고 생각합니다. 어머니 아버지 조차 때때로 내게 이해할 수 없는 모습을 보이실 적이 있었으니까요.

그리하여 그렇게 아무에게도 호소하지 않는 내 고독의 냄새는 많은 여성들로 하여금 본능적으로 그 냄새를 맡게 하여 훗날 여성들이 내게 접근하게 된 유인 중 하나가 된 것 같은 기분도 듭니다.

결국 나는 여성들에게 사랑의 비밀을 지킬 수 있는 남자였던 것입니다.

 

 

2. 강석 및 해설

①속이는 것

다자이는 문학이 허구에 기반하고 있다는 것을 강하게 의식했다. 또한 그는 소설의 본질은 거짓말이며 소설가는 거짓말쟁이라고 생각하여 천성이 거짓말쟁이인 자신에게 강한 긍지를 갖고 있으면서 동시에 거짓말에 대한 죄악감 또한 갖고 있었다. 소설이 거짓이라고 생각했기에 비로소 다자이는 자신의 실생활을 작품의 제재로 다루었고 한편으로는 그것을 있는 그대로 그리는 것이 아닌 종종 거짓말을 하거나, 사실을 숨기거나, 중요한 부분을 누락시켜가며 그려내었다.인간실격에서 요조는 인간에 대한 불안과 공포 때문에 익살꾼으로서의 인생을 연출하게 된다.

 

 

1. 텍스트(8/12)

원 문

한국어 역

第二の手記

  海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉(わかは)と共に、青い海を背景にして、その絢爛(けんらん)たる花をひらき、やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を(ちりば)めて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中学校に、自分は受験勉強もろくにしなかったのに、どうやら無事に入学できました。そうして、その中学の制帽の徽章(きしょう)にも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。

  その中学校のすぐ近くに、自分の家と遠い親戚に当る者の家がありましたので、その理由もあって、父がその海と桜の中学校を自分に選んでくれたのでした。自分は、その家にあずけられ、何せ学校のすぐ近くなので、朝礼の鐘の鳴るのを聞いてから、走って登校するというような、かなり怠惰(たいだ)な中学生でしたが、それでも、れいのお道化によって、日一日とクラスの人気を得ていました。 生れてはじめて、謂わば他郷へ出たわけなのですが、自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、ずっと気楽な場所のように思われました。それは、自分のお道化もその頃にはいよいよぴったり身について来て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたからである、と解説してもいいでしょうが、しかし、それよりも、肉親と他人、故郷と他郷、そこには抜くべからざる演技の難易の差が、どのような天才にとっても、たとい神の子のイエスにとっても、存在しているものなのではないでしょうか。俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親眷属(ろくしんけんぞく)全部そろって坐っている一部屋の中にあっては、いかな名優も演技どころではくなるのではないでしょうか。けれども自分は①演じて来ました。しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。それほどの曲者(くせもの)が、他郷に出て、万が一にも演じ損ねるなどということはないわけでした。

 

두 번째 수기

나는 파도가 바로 요 앞까지 들이친다고 해도 좋을 정도로 바다와 가까운 토호쿠의 어느 중학교에 시험공부도 제대로 하지 않았지만 별 탈 없이 입학할 수 있었습니다. 바닷가에는 나무껍질이 새까만 꽤 큰 산벚나무가 스무 그루 이상이나 줄지어 서 있었습니다. 새 학기가 시작하면 산벚나무는 갈색의 끈질겨 보이는 어린잎과 함께 푸른 바다를 배경으로 그 현란한 꽃을 피웠습니다. 그리고 마침내 꽃보라가 날릴 때에는 엄청나게 많은 양의 꽃잎이 바다로 흩날리어 온 바다 표면을 꽃으로 아로새긴 채 떠다니다가 파도에 실려 다시 바닷가로 되돌아왔고 그 벚꽃 모래사장을 그대로 교정으로 사용하고 있었습니다. 그래서 그 중학교의 교복 마크에도 교복 단추에도 벚꽃이 도안되어 피어 있었습니다.

그 중학교 바로 근처에 우리 집과 먼 친척이 되는 사람의 집이 있었기 때문에 그런 이유도 있고 해서 아버지가 그 바다와 벚꽃의 중학교를 내게 골라 준 것이었습니다. 어쨌든 나는 그 집에 맡겨졌고 학교가 매우 가까웠기 때문에 조례를 알리는 종소리가 울리는 것을 듣고서야 뛰어서 등교를 하는 그런 꽤 게으른 중학생이었습니다만 그래도 예의 익살로 나날이 반에서 인기를 얻고 있었습니다. 태어나서 처음으로, 이른바 타향살이를 하게 된 셈입니다만 내게는 그 타향이 내가 태어난 고향보다도 훨씬 마음이 편한 곳처럼 생각되었습니다. 그것은 내 익살도 그 무렵에는 더욱 몸에 잘 배게 되어 인간을 속이는 데 그전처럼 고생할 필요가 없어졌기 때문이라고 해도 좋을 테지만 그보다도 육친과 타인, 고향과 타향 사이에—어떤 천재든, 설령 신의 아들인 예수라 할지라도—존재할 수 밖에 없는 연기의 난이도 차가 있었던 것은 아니었을까요. 배우에게 있어 가장 연기하기 힘든 장소는 고향에 있는 극장이어서 일가 친인척이 모두 모여 앉아있는 좁은 방 안에서는 어떠한 명배우도 연기하기 어려워지는 것 아닐까요. 그렇지만 나는 ①연기해왔습니다. 게다가 그것이 제법 괜찮은 성공을 거두었던 것입니다. 그 정도의 실력자인 내가 타향에 와서 만에 하나라도 연기에 실패한다거나 하는 일은 없을 것이 분명했습니다.

 

 

2. 강석 및 해설

①연기해왔습니다

익살(道化)’은「道化와 함께「인간실격」에 있어서도 중요하게 등장한다. 요조는 익살을 통해 간신히 인간과 이어지며 점점 익살에 익숙해져간다. 인간을 모르겠다는 공포에 전율하는 요조는 혼자만의 깊은 고민(懊悩)’을 그저 숨기기만하고 슬픈 익살을 이어간다. 어떻게든 도망치기 위해 불안에 떠는 내면을 은폐하고 주위 분위기에 맞추어 낙천적으로 행동한다는 점에서「道化」와「인간실격」은 공통점을 보인다. 하지만 이 두 작품에 있어서 익살에는 중요한 차이점이 존재하며 그 차이에 주목하지 않으면 안된다.

「인간실격」의 메커니즘에 대하여 사카키바라(榊原理智)는 다음과 같은 분석을 하고 있다. <요조는 인간의 언어사용 룰이라고 하는 묘체를 알려주지 않았기 때문에 익살진실을 숨기고 타인의 반응을 살필 수 밖에 없었다고 하지만 그러한 묘체라는 것은 사실 처음부터 존재할 리가 없는 요조가 만들어낸 상상의 구축물에 지나지 않는 것이다. , 상대의 반응이 있을 때까지 자신의 의도대로 상대가 받아들였는지 아닌지 알 수 없다고 하는 지극히 당연한 발화의 모습을 굳이 익살이라고 이름 붙인 것에 의하여 언어 사용 룰이 상정되고 인간자신이라고 하는 가공의 대립이 생겨나는 것이다. ‘인간이 있기 때문에 요조가 익살을 부리는 것이 아니라, 발화를 익살이라고 이름 붙였기 때문에 인간이 부각 되어지는 것>이라고 하는 것이 사카키바라의 요론이다. 이 논에 따르면 인간실격에 있어서의 익살이라는 것은 요조가 자신을 인간으로부터 유리시켜 독자의 존재로 만드는 것과 동시에 그 인간공포의 대상으로써 인식하여 두려워하지 않을 수 없게 하는 자승자박의 장치로써도 기능하고 있다고 볼 수 있는 것이다.

 

 

1. 텍스트(9/12)

원 문

한국어 역

自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動(ぜんどう)していましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷のことき蛮声を張り上げる配属将校をさえ、実に容易に噴き出させることができたのです。

  もはや、自分の正体を完全に隠蔽(いんぺい)し得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣を着て、学課は少しもできず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。

  その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいによって見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざとできるだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁ささやきました。

 「ワザ。ワザ」

  自分は震撼(しんかん)しました。ワザと失敗したということを、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けないことでした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。

 

나의 인간공포는 이전에 비해 결코 뒤떨어지지 않을 만큼 아니 오히려 이전보다 더 격렬하게 가슴 속에서 꿈틀댔지만 연기는 실로 점점 누긋해져 교실에서는 항상 반 아이들을 웃겼습니다. 선생님도 이 반은 오오바만 없으면 아주 좋은 반 일 텐데 말이야라고 말로는 한탄하며 손과 입을 가리고 웃었습니다. 나는 우레와 같이 거칠고 사나운 소리를 내지르는 배속장교까지도 아주 간단히 웃음을 터뜨리게 할 수 있었던 것입니다.

나의 정체를 완전히 은폐할 수 있었다고 이제 마음을 놓으려는 참에 나는 실로 뜻하지 않게 등뒤에 칼을 맞았습니다. 그것은 배후에서 칼을 찌르는 남자의 대부분이 그러하듯이 반에서 가장 빈약한 체구를 하고, 얼굴도 푸석하고, 소매가 ①쇼토쿠태자의 소매처럼 아주 긴 윗도리를 입고—확실히 아버지나 형에게 물려받은 옷이라고 생각되는—공부도 좀처럼 잘하지 못하고, 교련이나 체조는 항상 견학만 하는 거의 백치나 다를 바 없는 학생이었습니다. 그래서 나 역시 그 학생까지 경계할 필요를 느끼고 있지 못했던 것이었습니다.

그날 체조시간에 그 학생(성은 지금 기억하고 있지 않습니다만 이름은 타케이치였던 것으로 기억하고 있습니다), 타케이치는 앞서 말한 것처럼 견학을 하고 우리들은 철봉 연습을 하고 있었습니다. 나는 일부러 될 수 있는 한 엄숙한 얼굴을 하고 철봉을 향하여 이얍하고 소리치며 뛰었습니다. 그리고 그대로 제자리 멀리뛰기를 하는 듯이 전방으로 날아서 모래땅에 쿵 하고 엉덩방아를 찧었습니다. 전부 계획적인 실패였습니다. 예상대로 모두 박장대소를 했고 나도 쓴 웃음을 지으며 일어나 바지에 묻은 흙을 털고 있었는데 언제 거기에 와 있었는지 타케이치가 내 등을 쿡쿡 찌르고 낮은 목소리로 이렇게 속삭였습니다.

..

나는 간담이 서늘해졌습니다. 일부러 실패했다는 것을 다른 사람도 아닌 타케이치에게 간파 당할 것이라고는 정말이지 상상도 못했던 일이었습니다. 나는 세계가 순식간에 지옥의 ②업화에 둘러싸여 맹렬히 타오르는 것을 눈 앞에서 보는 것 같은 심정이 되어 으악! 하고 소리지르며 미쳐 날뛸 것만 같은 기색을 필사적으로 감췄습니다.

 

2. 강석 및 해설

①쇼토쿠태자(徳太子)

비다츠(敏達)천황 3(574)-스이코(推古)천황 30(622), 아스카(飛鳥) 시대의 왕족, 정치가.

 

②업화(業火)

지옥의 죄인을 괴롭혔던 맹화. 사나운 불길이나 화재에 비유하기도 한다. 또한 업화는 불교 용어로 자신의 저지른 악업의 응보에 따라 괴로움 당하는 것을 불에 태워진다고 비유한다. 또 지옥에서 죄인이 타들어가는 불을 비유하는 경우도 있다.

 

※사진자료※

            

<그림1>쇼토쿠 태자                    <그림2>쇼토쿠 태자2

 

 

1. 텍스트(10/12)

원 문

한국어 역

それからの日々の、自分の不安と恐怖。

  表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しい溜息が出て、何をしたってすべて竹一に木っ葉みじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰かれとなく、それを言いふらして歩くに違いないのだ、と考えると、額にじっとり油汗がわいて来て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロむなしく見廻したりしました。できる事なら、朝、昼、晩、四六時中、竹一の(そば)から離れず彼が秘密を口走らないように監視していたい気持でした。そうして、自分が、彼にまつわりついている間に、自分のお道化は、所謂「ワザ」ではなくて、ほんものであったというよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、あわよくば、彼と無二の親友になってしまいたいものだ、もし、そのことが皆、不可能なら、もはや、彼の死を祈るより他はない、とさえ思いつめました。しかし、さすがに、彼を殺そうという気だけは起りませんでした。自分は、これまでの生涯において、人に殺されたいと願望したことは幾度となくありましたが、人を殺したいと思ったことは、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけのことだと考えていたからです。

  自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に偽クリスチャンのような「優しい」媚笑(びしょう)(たた)え、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、そうして猫撫(ねこな)で声に似た甘ったるい声で、彼を自分の寄宿している家に遊びに来るようしばしば誘いましたが、彼は、いつも、ぼんやりした眼つきをして、黙っていました。しかし、自分は、或る日の放課後、たしか初夏の頃の事でした、夕立ちが白く降って、生徒たちは帰宅に困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飛び出そうとして、ふと下駄箱のかげに、竹一がしょんぼり立っているのを見つけ、行こう、傘を貸してあげる、と言い、臆する竹一の手を引っぱって、一緒に夕立ちの中を走り、家に着いて、二人の上衣を小母さんに乾かしてもらうようにたのみ、竹一を二階の自分の部屋に誘い込むのに成功しました。

 

그날로부터 시작된 매일매일의 불안과 공포.

표면으로는 변함없이 서글픈 익살을 연기하며 모두를 웃기고 있었습니다만 문득 뜻하지 않은 한숨이 나왔습니다. 무엇을 해도 전부 타케이치에게 지실(知悉)히 간파 당해서 이러다가 분명 그가 너나 할 것 없이 모든 사람들에게 그 사실을 떠벌리고 다닐 게 틀림없다는 생각이 들자 이마에 축축하게 진땀이 나서 미친 사람 마냥 공연히 묘한 눈초리로 주위를 두리번거리며 둘러보거나 했습니다. 할 수만 있다면 아침, 점심, , 스물 네시간 내내 타케이치의 곁에서 떨어지지 않고 그가 비밀을 엉겁결에 입 밖에 내지 않도록 감시하고 싶은 기분이었습니다. 그리하여 내가 그에게 늘 붙어 다니는 동안 나의 익살은 일부러가 아니라 진짜였다는 듯이 생각하게 하기 위해 노력이란 노력은 다 하고 싶었습니다. 기회만 있으면 그와 둘도 없는 친구가 되어버리고 싶다, 만일 이 모든 것이 불가능하다면 이제는 그가 죽는 것을 바랄 수 밖에 없다고 하는 생각마저 들었습니다. 하지만 역시 그를 죽이고자 하는 마음만은 들지 않았습니다. 나는 여태까지의 생에 있어 누군가가 나를 죽여주었으면 하고 소원한 적은 몇 번이나 있었지만 내가 누군가를 죽이고 싶다고 생각한 적은 한 번도 없었습니다. 그것은 지독한 상대에게 오히려 행복을 주는 일이라고 생각했기 때문입니다.

나는 그를 포섭하기 위해 우선 가짜 기독교인 같은 상냥한미소를 얼굴에 띄우고 고개를 삼십도쯤 왼쪽으로 기울여 그의 작은 어깨를 가볍게 껴안아 간살스럽고 달콤한 목소리로 그를 내가 얹혀살고 있는 집으로 놀러 오도록 누차 초대했지만 그는 언제나 흐리멍덩한 눈을 하고 아무 말도 하지 않았습니다. 하지만 어느 날 방과후—분명 초여름쯤의 일이었습니다—갑자기 소나기가 세차게 내렸습니다. 다른 아이들은 집에 가는 것이 곤란했던 모양이었지만 나는 집이 바로 요 앞이었기 때문에 별 걱정 없이 뛰쳐나가려는데 문득 신발장 그림자 쪽에 타케이치가 풀이 죽어 서 있는 것을 보았습니다. 나는 가자. 우산 빌려줄게하고 주눅 든 타케이치의 손을 잡아 끌고 같이 소나기 속을 뛰어서 집에 도착했습니다. 두 사람 분의 상의를 친척집 아주머니에게 말려달라고 부탁하고 타케이치를 이층에 있는 내 방으로 끌어들이는데 성공했습니다.

 

2. 강석 및 해설

①불안

다자이의 불안에 대한 논은 크게 두 가지로 요약될 수 있다. 첫째는 그의 불안이 일종의 나르시시즘에 의한 것이라는 것과 그의 작품으로부터 읽어낼 수 있는 자아상실에 의한 불안이 그것이다. 첫 번째 논에 따르면 오오바 요조는 자신의 행복 관념이 세상 사람들과의 행복 관념과는 너무나 다른 것 같은 불안, 그 불안 때문에 미칠 것 같았다는 서술에 주목한다. 앞의 간접인용문은 본인은 욕망이나 실용성의 감정등이 결여되어 있다는 점에서 다른 사람과 다르다는 것을 느끼고 불안을 토로하는 부분이다. 타니자와(谷沢)는 이에 대해 타인과 다르다고 하는 감각은 일종의 선민의식을 토대로 한다. 불안은 나르시시즘의 산물이다라고 지적한다. 한편 두 번째 논에 따른 해석은 다자이가 무성격을 피할 수 없었던 것을 강한 시대적 불안감을 표현한 것으로 보고 그 대표작으로「ならずダスゲマイネ를 꼽는다.

 

 

1. 텍스트(11/12)

원 문

한국어 역

 

  その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、眼鏡をかけて、病身らしい背の高い姉娘(この娘は、いちどよそへお嫁に行って、それからまた、家へ帰っているひとでした。自分は、このひとを、ここの家のひとたちにならって、アネサと呼んでいました)それと、最近女学校を卒業したばかりらしい、セッちゃんという姉に似ず背が低く丸顔の妹娘と、三人だけの家族で、下の店には、文房具やら運動用具を少々並べていましたが、主な収入は、なくなった主人が建てて残して行った五六棟の長屋の家賃のようでした。

 「耳が痛い」

  竹一は、立ったままでそう言いました。

 「雨に濡れたら、痛くなったよ」

  自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。(うみ)が、いまにも耳殻(じかく)の外に流れ出ようとしていました。

 「これは、いけない。痛いだろう」

  と自分は大げさにおどろいて見せて、

 「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね」

  と女の言葉みたいな言葉を遣って「優しく」謝り、それから、下へ行って綿とアルコールをもらって来て、竹一を自分の膝を枕にして寝かせ、念入りに耳の掃除をしてやりました。竹一も、さすがに、これが偽善の悪計であることには気附かなかったようで、

 「お前は、きっと、女に()れられるよ」

  と自分の膝枕で寝ながら、無智なお世辞を言ったくらいでした。

しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識しなかったほどの、おそろしい悪魔の予言のようなものだったということを、自分は後年に到って思い知りました。惚れると言い、惚れられると言い、その言葉はひどく下品で、ふざけて、いかにも、やにさがったものの感じで、どんなに所謂「厳粛」の場であっても、そこへこの言葉が一言でもひょいと顔を出すと、みるみる憂鬱の伽藍(がらん)が崩壊し、ただのっぺらぼうになってしまうような心地がするものですけれども、惚れられるつらさ、などという俗語でなく、愛せられる不安、とでもいう文学語を用いると、あながち憂鬱の伽藍をぶちこわす事にはならないようですから、奇妙なものだと思います。

 

 

그 집에는 쉰을 넘긴 친척 아주머니와 병약한 것 같은 안경을 쓰고 키가 큰, 서른 살 정도된 큰딸(이 딸은 한 번 시집을 갔다가 다시 집으로 돌아온 사람이었습니다. 나는 그 사람을 이 집 사람들에게 배운 대로 아네사라고 불렀습니다)과 최근에 여학교를 이제 막 졸업한 듯한 언니와는 달리 키가 작고 얼굴이 동그란 셋쨩이라는 작은딸, 이렇게 세 사람이 단출하게 살고 있었습니다.

귀가 아파

다케이치가 선채로 그렇게 말했습니다.

비를 맞았더니 아파졌어

살펴보니 양쪽 귀에 귀 고름이 엄청났습니다. 고름은 지금이라도 당장 귓바퀴 바깥으로 흘러내리려고 하고 있었습니다.

이거 안되겠는걸. 많이 아프지?”

나는 과장스럽게 놀란 체하며

비 오는데 그렇게 잡아 끌고 뛰어서 미안해

라고 여자 같은 말씨로 상냥하게사과하고 아래층으로 내려가서 솜과 알코올을 받아와 내 무릎을 베개 삼아 타케이치를 눕히고 정성 들여 귀 청소를 해주었습니다. 과연 타케이치도 이것이 위선에 가득 찬 흉계라는 것을 알아차리지 못한 듯,

틀림없이 너한텐 여자들이 반할 거야

라며 내 무릎베개를 벤 채로 무지한 아부를 할 정도였습니다.

하지만 아마도 이것은 그 말을 했던 타케이치도 의식하지 못했을 정도의 무서운 악마의 예언과 같은 것이었음을 나는 후일이 되어서야 통감하였습니다. 반한다느니 반하게 되었다느니 하는 그 말은 무척 천박하며 희룽대는, 정말이지 우쭐해져서 벙글대는 그런 느낌입니다. 아무리 엄숙한 자리라 할지라도 그곳에 이 말이 한 마디라도 휙 하고 얼굴을 내밀면 순식간에 우울한 가람이 붕괴하여 그저 휭뎅그렁해질 듯한 기분이 듭니다. 또 그러면서도 누군가가 내게 반한다는 것에 대한 괴로움 따위의 저속한 말이 아닌 사랑 받는다는 불안이라는 문학적 표현을 사용하자면 반드시 우울한 가람을 무너뜨릴 일까지는 안 되는 것 같으니 기묘한 일이라고 생각합니다.

 

 

①가람(伽藍)

산스크리트어에서 유래한 말로 승려들이 모여 수행하는 청정한 장소의 의미였으며 후에는 사원 또는 사원의 주요 건물 군을 의미하게 됐다. 여기에서는 앞 뒤의 맥락으로 살펴봤을 때 엄숙한 자리에서의 분위기를 이미지화 하기 위하여 차용한 비유적 표현이라고 생각된다. 전술에 제시된 반하다라는 말을 천박하고 희룽거리는, 우쭐해져서 벙글대는 느낌이라고 서술하는 것은 가람과 서로 대조되며 결국 두 이미지 모두를 한층 더 부각시키는 기능을 하고 있다.

 

 

※사진자료※

         

<그림1>가람                                              <그림2>가람2

 

 

 

 

1. 텍스트(12/12)

원 문

한국어 역

  竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、お前は惚れられるという馬鹿なお世辞を言い、自分はその時、ただ顔を赤らめて笑って、何も答えませんでしたけれども、しかし、実は、(かす)かに思い当るところもあったのでした。でも、「惚れられる」というような野卑な言葉によって生じるやにさがった雰囲気に対して、そう言われると、思い当るところもある、などと書くのは、ほとんど①落語の若旦那のせりふにさえならぬくらい、おろかしい感懐を示すようなもので、まさか、自分は、そんなふざけた、やにさがった気持で、「思い当るところもあった」わけではないのです。

  自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。自分の家族は、女性のほうが男性よりも数が多く、また親戚にも、女の子がたくさんあり、またれいの「犯罪」の女中などもいまして、自分は幼い時から、女とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思っていますが、それは、また、しかし、実に、薄氷を踏む思いで、その女のひとたちと附合って来たのです。ほとんど、まるで見当が、つかないのです。五里霧中で、そうして時たま、虎の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受ける(むち)とちがって、内出血みたいに極度に不快に内攻して、なかなか治癒(ちゆ)し難い傷でした。

  は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳(じゃけん)にし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女についてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかも知れません。

 

타케이치가 내게 귀 고름의 치료를 받고 여자들이 너한테 반할 거야 라고 멍청한 아부를 했을 때 나는 그저 얼굴을 붉히고 웃으며 아무 대답도 하지 않았습니다. 그렇지만 사실은 어렴풋이 짚이는 구석이 있었던 것입니다. 하지만 여자들이 반할 거야와 같은 야비한 말에 의해 생겨나는 신나서 히죽거리는 것 같은 분위기에 대해 짚이는 구석이 있다고 적는 것은 거의 ❖①라쿠고에 나오는 자기 중심적인 젊은 남편의 대사감 조차 되지 못할 정도로 어리석은 감회를 나타내 보이는 것 같습니다. 하지만 아무리 그렇다 할지라도 나는 그런 시시덕거리거나 히죽대는 기분으로 짚이는 구석이 있다고 한 것은 아닙니다.

내게는 인간 중에서도 여성 쪽이 남성 쪽보다도 훨씬 몇 배는 더 난해했습니다. 우리 가족은 여성 쪽이 남성보다도 명 수가 많았고 친척도 여자 아이들이 잔뜩 있었습니다. 또한 예의 범죄를 저지른 하녀 등도 있어서 나는 어렸을 적부터 여자하고만 놀며 자랐다 해도 과언이 아니라고 생각합니다. 하지만 나는 사실 살얼음판을 디디는 심정으로 그녀들을 대해 왔습니다. 여자란 거의 도통 가늠을 할 수가 없었습니다. 5리나 되는 안개 속을 간간이 호랑이 꼬리를 밟는 것과 같은 실수를 해가며 큰 상처를 입었는데 그것이 또 남성으로부터 받는 채찍을 맞는 것 같은 상처와는 달랐습니다. 상처는 내출혈처럼 극도로 불쾌하게 겉으로는 드러나지 않은 채 내부로만 파고들어 좀처럼 치유되기 어려운 것이었습니다.

②여자는 먼저 다가왔다가도 매몰차게 떠나가고, 사람이 있는 곳에서는 나를 괄시하고 무자비하게 대하다가 아무도 없을 때면 또 나를 꽉 끌어안습니다. 또 여자는 죽은 것처럼 깊이 잡니다. 여자는 자기 위해 사는 것이 아닐까. 그 밖에도 나는 이미 유년시절부터 여자를 관찰하여 얻은 여러 사실들을 더 알고 있었습니다만 같은 인류이면서도 정말이지 남자와는 전혀 다른 생명체인 것 같은 느낌이었습니다. 그런데 이 불가해하고 방심할 수 없는 생명체는 기묘하게도 나를 보살펴 주는 것이었습니다. ‘내게 반한다고 하는 말도, ‘나를 좋아한다고 하는 말도 내 경우에는 조금도 어울리지 않았습니다. 차라리 나를 보살펴준다고 말하는 편이 그런대로 실상을 설명하기에 적당할지도 모르겠습니다.

 

2. 강석 및 해설

젊은 남편(若旦那)

유야(湯屋番)에 나오는 주인공을 말한다. 유야방은 고전 만담의 항목 하나이며 『우스운 이야기(滑稽噺) 일종이다. 제목의유야방』 공중 목욕탕의 카운터(湯屋番台) 약어이다.

②여자

대다수의 독자들은 다자이의 작품에서 몇 개인가의 전형적인 여성상을 볼 수 있다고 지적한다. 그 몇 개인가의 상을 정리해보자면 우선 첫 번째로 씩씩하고 왕성한 생명력을 느낄 수 있는 꿋꿋하게 살아가는 여성이며 두 번째는 모든 것을 받아들이고 용서하는 여성’, 세 번째는 잔인함을 숨기고 있는 여성’, 마지막으로 앞의 세 타입에 포함될 수 없는 여성의 자질을 특징으로 하는 여성으로 총 네 분류다. 이 중에서『인간실격』에서 보여지는 여성상은 세 번째 유형의 여성으로 분류될 수 있다. 여성은 여기에서 말해지는 것과 같이 너무나도 난해하고그 사고의 방향이 너무나도 달라서 남자인 다자이로서는 이해할 수 없는 부분이 많았고 그러한 여성의 난해함이 다자이의 불안을 초래한 또 하나의 요인으로써 작용하였을지도 모른다. 한편 다자이의 여성관뒤에 보여지는 범해지는 이미지(されるイメ)’는 이미 다수의 논문에서 지적되어 온 바이며 그 이미지는『인간실격』까지 쭉 이어져오고 있다.

 

 

참고문헌

텍스트

太宰治、『太宰治集』(現代の文学26)、河出書房新社、1966

 

단행본 및 사전

다자이 오사무 저, 양윤옥·김윤희 역,『인간실격』,느낌이 있는 책, 2010.5

志村有弘・渡部房紀 編、『太宰治大事典』、勉誠出版、2005

 

【 참고 웹페이지 및 이미지

아사쿠사 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%8D%89

아사쿠사 나카미세 http://asakusa-nakamise.jp/about/index.html

사자춤 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%85%E5%AD%90%E8%88%9E

일본문화 이로하 사전 http://iroha-japan.net/iroha/C03_show/07_shishimai.html

사자춤의 의미와 유래 http://www2.odn.ne.jp/kai-kaon/sub6-4.html

다자이 가족사진 http://dazai.or.jp/modules/know/know_annals.html#his01

서양식방 사진 http://wada-blog.me/kanaki/

다자이 사양관 http://chihoko777.exblog.jp/11898009/ (森県五所川原市金木町朝日山412-1)

사라사무늬 https://www.google.co.kr/search?tbm=

메챠라쿠챠라 http://www.hikawashobo.com/images/products/33180.jpg

소년클럽 http://img02.shop-pro.jp/PA01099/332/product/37905501_o2.jpg?20111214225945

재담 http://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E8%AC%9B%E8%AB%87&aq=-

쇼토쿠태자

http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=sfp_as&p=%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90#mode%3Ddetail%26index%3D2%26st%3D0

http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=sfp_as&p=%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D0

가람

http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=sfp_as&p=%E4%BC%BD%E8%97%8D#mode%3Ddetail%26index%3D22%26st%3D545

http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=sfp_as&p=%E4%BC%BD%E8%97%8D#mode%3Ddetail%26index%3D34%26st%3D981



[1] 텍스트는 太宰治、『太宰治集』(現代の文学26)、河出書房新社、1966

Posted by prajna_